コントローラブルであること
私にとって “コントローラブルである” というのは大切な状態である。
コントローラブルである対象が多いほど、コントローラブルであると感じられるほど、幸せを感じる。
コントローラブルとは、自分の意のままである、ということでもない。思い通りにいかなかったとしても、何かを行った反応を感じられれば、それはコントローラブルであると感じる。
仕事はわかりやすくコントローラブルな例である。誰かに言われてやるのではなく、自分で意義を見つけて、自分で登り方を考えて試行錯誤する。このコントローラブルな範囲が広く多いほど、私にとっての仕事(サラリーマンとしての仕事)は幸せである。
自作のコンポストで生ゴミを土に還す、というのもわかりにくいコントローラブルな例だ。もう年単位で生ゴミをゴミとして捨てていないが、これもとても幸せである。
自分の手でゴミを土に還す、還せている、という反応を五感を通して感じることができる。土に還る途中でも、何なら微生物が処理しやすいように刻む過程でも幸せを感じられる。
他にも植物食や散髪、医者いらず、自転車、散歩、睡眠、町内会への参加、ソーシャルメディアを使わないこと、テレビを観ないこと、筋トレ、ヨガ、リンパ流しなどがこれにあたる。