永久を演技するウォーホル【アンディ・ウォーホル・キョウト】
永久を演技するウォーホル【アンディ・ウォーホル・キョウト】
作者は嘘をついているわけではない
演技するウォーホルと作品
永久に閉じ込められるスターたち
メディアがもたらす社会問題と共通点
『最後の晩餐』の演技とそれを見る演技
「アンディ・ウォーホル・キョウト」は京都市京セラ美術館で2020年9月に行われるはずだったものだ。延期され、2022年9月から2023年の2月まで行われている。
作者は嘘をついているわけではない
「作者の言うことを信じてはいけない」
作品を鑑賞するときに肝に銘じることの一つだ。
嘘をつくのとは少し違う。
作者はよりよい鑑賞体験を提供するために「演技をする」というのが正しいのかもしれない。
今回の「アンディ・ウォーホル・キョウト」で、作者の発言に関する解像度が増した。
ウォーホルは1950年代半ばからウィッグを活用するようになる。
ファッションは好きだと語ったうえで、毎日同じ服を着るウォーホルは、いつの間にか一目見ればウォーホルだとわかるような見た目になっていた。
それはユニフォームをきて仕事モードになる社会人のように、もしくは衣装を着ることでスイッチを入れるミュージシャンのように、または着物を着て宴席に興を添える舞妓のように。
なにより、子供の頃から憧れ続けたハリウッドスターになりたかったのかもしれない。
それも俳優自体になりたかったのではなく、銀幕の中に閉じ込められ、永久に複製されていくイメージとしてのハリウッドスターに、である。
ウォーホルは決して自分を見せなかった。
本人曰く「空っぽ」。であるから、インタビュアーに対して、言ってほしいことがあればその通りに言うと告げている。
これは自分が作品や昔の発言と矛盾することを述べてしまった際の逃げ道かもしれない。リップサービスで滑らした口の居場所を作るためかも知れないし、ミステリーであり続けたかった本人の願いかもしれない。もしくは虚実入り交じる語り口の中の唯一の本心なのかもしれない。
なににしろ、演技をし続けるウォーホルに対して、実際にどう思っていたかより、どう印象付けたかったか、もっと主観的に、どう僕らが印象付けられたかを考えるべきだろう。
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『銀の雲』(1966)
インスタレーションとして体験することができた。
プロジェクターの置き方も素晴らしかったが、
あれはキュレーションによるものだったのだろうか?
演技するウォーホルと作品
「言ってほしいことがあればその通りに言う。」
これはそのまま役者という存在に通じる。
ハリウッドスターに憧れ、スーパースターに囲まれたウォーホルは自分もまたスターであることを望んだ。
ウォーホルにとってスターとは「虚実入り交じり、演技するイメージ」だったのではないだろうか。
ウォーホルの映像作品に『エンパイア』(1964)がある。
六時間エンパイア・ステート・ビルを定点で撮影した映像で、初上映時は未編集&スローモーションで公開され8時間強の長さだったという。
ウォーホルは「エンパイア・ステート・ビルはスターなんだ!」と叫んだそうだが、スターを演技するものと考えるとまた違った考察ができる。
エンパイア・ステート・ビルは、世界一の高さのビルという称号を手に入れるために急ピッチで施工され、世界恐慌の影響もあり当初は多くが空室のままだった。世界一を「演技」するために「空っぽ」だったのだ。
もう少し思考を飛ばすと、資本主義も目に見えない価値をやり取りするという“演技”によって成り立っていると言えるかもしれない。資本は物理的に実在するとは言い難いが嘘ではない。
ビジネスマンでもあったウォーホルにとって、消費社会の大量生産をアートに取り込むのと同じように、演技で動く社会を切り取ってアートの世界に持ち込むのは自然なことにも見える。
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『ブリロの箱』
手作りでありながら大量に生産され、重なり合って展示されるさまは食品倉庫のようだったという
二箱だけが、塗装がかすれた状態でおいてあるとまた違った味わいがある。
『ブリロの箱』(1964)は商品梱包用の段ボール箱を模した彫刻で、ひとつひとつ手作業で印刷されている。本展で展示された作品は時間のいたずらにより塗装が剥げ、また違った味わいのある作品になっているが、発表された当初は実際の箱と瓜二つだったという。
デュシャンのレディ・メイド(既製品)と似たコンセプトを読み取れるというキャプションがあったが、一つ一つ丁寧に作られたこの彫刻は決して既存品ではない。
この作品は精一杯演技しているのである。
まるで自分が本当に商品を梱包しているかのように、
しかし美術館という場所で展示される作品でもあるように。
この二律背反にも見える概念が同居するのは、役者と役が真反対の性格でも成り立つことと似ている。そう考えると舞台上で大事なことは役者自体ではなく役であり、「すべてを知りたければ表面上だけ見ればいい。」と語ったウォーホルの言葉にも近づくことができる。
永久に閉じ込められるスターたち
演技をすることで作品になる。
銀幕の中のスーパースターたちは、その役を永久に演じ続ける。
ウォーホルの作品の多くはそれを再現していると言っていいだろう。
『タイム・カプセル』(1974~1987)に閉じ込めるように、自分の好きなスターたちを、自分自身を、絶滅危惧種を、キリストを、永久の中に閉じ込めた。
展示された『三つのマリリン』(1962)を始めとしてマリリン・モンローを題材にした作品は有名だ。これらの作品群は1962年8月の突然の死に触発されて作られたものだという。
同じように『ザ・ビートルズ』(1980)も1970年に解散したイメージを作品に残すことで延命させた。
なくなったものでもイメージは残り、そのイメージが演技する場を作ることで、作品となる。美術館や芸術家の権威性が、既製品さえも作品に変えてしまうというデュシャン作品の考え方とは、また違った角度からの芸術観をウォーホル作品からは覗くことができる。
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『スクリーン・テスト』(1964-1966)
ダリを始めとしポートレートのように映し出される有名人たち。
何をするでもなくじっとしたまんまの人物たちは、写真と映画の間を縫っていく。
メディアがもたらす社会問題と共通点
なくなってしまった後も残り続ける現象。いまでは「デジタルタトゥー」としてマイナスの観点から焦点があたっている。
ウォーホルは新しいものをよく見つめていたからか、今、顕在する現象を一足早く作品に落とし込んでいる。
『ギャングの葬式』(1963)は、『ライフ』誌の特集記事に乗っていた老女の葬儀の写真を使ったもので、『ギャングの葬式』というタイトルと反復、ピンクに塗りつぶされた画面によって全く違った文脈を読み取ることができる。展示されていたキャプションから引用すると、たしかにこれは「フェイクニュース」と似た構造になっている。
メディアが作り出す現象に目をつけた作品だが、現在顕在化する問題との相違点は、ウォーホルにとってただの現象であり、プラスの感情もマイナスの感情もなくただ観察するような静かな視点により作成されている点である。
同じように『死者5名』(1963)をはじめとした「死と惨事」シリーズでは新聞雑誌や警察、ストックフォト会社から取り寄せた写真を使って制作されている。これもまたフェイクニュースと似た特性を持っている。
『ギャングの葬式』に話は戻るが、写真が載っていた元の記事ではソーントン・ワイルダーの戯曲『わが町』の場面や台詞が引用されていた。
キャプションによるとこの記事の目的とは
「フォトジャーナリズムという特定の出来事を捉えた写真が、いかに芸術――この場合はワイルダーの芝居――が表現するような普遍的な真実に迫るものであるかを示すことであった。」という。
続けて、それを逆手に取った作品だという。
文脈を変えることで違う演技を始め、ジャーナリズムの中と美術館の中で違う役割を持った『ライフ』の特集記事の写真は、作品ごとに違う人格を持つハリウッドスターと重ねることができる。
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「アーティストの肖像」(1967)
ちっちゃいキャンバスに閉じ込められたアーティストたちは他の肖像と違った、
コミカルな印象を受けた。並べ方もかわいい。
『最後の晩餐』の演技とそれを見る演技
今回の目玉の一つであった『最後の晩餐』(1986)は、たしかにウォーホルのまとめのような作品だった。
聖書の内容を「虚実入り交じる」と言うのも、「演技している」と言うのも問題しかないが、少なくともフレスコ画に描かれるキリスト像は後世に作られたものであることは確かだ。
しかし、役割を持てるのであれば実在した人物と同じである必要はないというのは言っても良いだろう。偶像の持つ強い力である。
敬虔なキリシタンであったウォーホルにとって聖書の内容は、それをもとにした無数の作品群は、どう見えていたのだろうか。
今回は虚実入り交じるウォーホルの作品群を、「演技をしている」という軸で観察した。
「嘘をついている」のでは、決してない。
どんなものでも文脈を持たせれば演技し始め、それは現実と同じ力、いやもしかしたら現実を上回る力を持つ。
一見、『最後の晩餐』に似つかわしくないバイクであっても、ウォーホルのデザイン能力、バランス力、演出力をもってすれば、宗教画の中で役割を持たせることができるのだ。
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『最後の晩餐』
あまりにも堂々とした佇まいに、演技してしまうのも仕方がないと感じた。
美術館に入ったとき、作品を見て舞台裏を想像する必要はない。
しかし、知らず知らずそうさせられてしまう。
文脈によって観客もまた観客としての演技をさせられている。
ウォーホルの美術シーンに対するカウンターは、
美術全体が演技であることを自覚させ、芸術家や評論家だけではなく我々にも演技をしている自覚を与えることだったのかもしれない。