ミュージックビデオの身体論⑨ヴァルネラブルな身体──クリス・カニンガムからまふまふまで
仮説
『ディレクターズ・レーベル』第1弾で紹介された3名のMV監督(スパイク・ジョーンズ、ミシェル・ゴンドリー、クリス・カニンガム)が描き出してきた身体イメージが、現在のMVが描き出す身体イメージの「原型」もしくは「類型」となっているのではないか
ミュージックビデオの身体論 佐々木友輔
https://note.com/sasakiyusuke/n/n29e4180daefc
オウテカ『Second Bad Vilbel』(1996)
『Mental Wealth』(プレイステーションCM、1999)
生理的でヴァルネラブルな身体
オトゥールズ『Back With The Killer Again』(1996)
ビョーク『All Is Full of Love』(1999)
ハイブリッドな身体
エイフェックス・ツイン『Come To Daddy』(1997)
エイフェックス・ツイン『Windowlicker』(1999)
マリリン・マンソン『The Dope Show』(1998)ポール・ハンター
(マリリン・マンソンは)ハイブリッドな身体を単なる露悪的表現だけに留めるのではなく、宗教的・政治的文脈と結びつけて扱ってきたアーティスト
幽霊的な身体
ポーティスヘッド『Only You』(1998)
水中で取られた映像
マドンナ『Frozen』(1998)
暴露性と見世物性
Squarepusher - Come On My Selector (Official Video)(1998)
大阪の孤児院(実際には隔離病棟のような施設)
クリス・カニンガム&エイフェックス・ツイン『Rubber Johnny』(2005)
ボディ・ジャンルのさらなる過剰
こうした表現をより広範な視覚文化の歴史上に位置づけるならば、映画研究者のリンダ・ウィリアムズが提唱した「ボディ・ジャンル」という概念を導入することが有効だろう(『Film Bodies: Gender, Genre, and Excess』1991年、未邦訳)。ボディジャンルは、物語の効率的かつ経済的な語り口を洗練させた古典的映画(古典的ハリウッド映画)のスタイルから逸脱した3つのジャンル(ホラー・ポルノグラフィ・メロドラマ)を説明するための言葉で、身体表象の過剰なスペクタクル性や、視聴者の身体への直接的な働きかけ(震え上がらせる・性的に興奮させる・涙を流させるなど)を特徴とする。
ラムシュタイン『Mein Tail』(2004)Zoran Bihać
レディ・ガガ『Bad romance』(2009)フランシス・ローレンス
AKB48『Beginner』(2011)中島哲也
対抗的な身体
主流の物語映画についてローラ・マルヴィが指摘したのと同様に、多くのMVもまた、男性が能動的に「見る」側、女性が受動的に「見られる」側を割り振られているという、まなざしの非対称性の問題を抱えてきた(「視覚的快楽と物語映画」斎藤綾子 訳、『新映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』所収、岩本憲児、武田潔、斎藤綾子編、フィルムアート社、1998年)
マイノリティはただ暴力に屈するのではなく、そのまなざしに抵抗し、逆に相手を批判的に見つめ返すことができる。そうしたまなざしのことを、ベル・フックスは「対抗的まなざし Oppositional Gaze」と呼んだ(「対抗的まなざし——黒人女性の観客性」『ブラック・ルックス——人種と表象』所収、1992年、未邦訳)。
ビリー・アイリッシュ『bad guy』(2019)デイヴ・マイヤーズ
bad guyってそういう話だったんだ
M.I.A.『Born Free』(2010)ロマン・ガヴラス M.I.A
『ハート・ロッカー』(キャスリーン・ビグロー、2008)
チャイルディッシュ・ガンビーノ『This Is America』(2018)ヒロ・ムライ
フラジャイルな身体
編集者・著述家の松岡正剛が指摘したように、こうした「弱さ」を「強さ」の欠如と捉えてはならない。「弱さ」はそれ自体で独自の特徴や価値を持っており、ささやかな一部分でありながら、時に全体の構造を揺るがせたり、大きな力に抵抗し得るような微細な力を持つのである(松岡正剛『フラジャイル——弱さからの出発』ちくま学芸文庫、2005年)。
BTS『I NEED U』(2015)
まふまふ『ひともどき』(2020)