ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読
レプリカと本物の話が流行っていたけど、ベンヤミン読んだことない!人文の徒失格だ!って思ったので読みやすいらしいこれを読もうかな、図書館にあった。
書評どす
簡単だみたいに書いてたけどむずくてキレそう...
でもわかる、これならちゃんと読めば学部の人でも読めるってのはそうでしょう
メモしていこう
そもそも美術館に美術品が収蔵された段階で芸術の解体が始まってるみたいな議論がある
芸術が大衆のものになった、マルキシズムやプロレタリアートの活動と関係している面がある
写真が画期的だったというが、現代の感覚では写真なんて全然模写できてないのではってなる
めちゃくちゃ情報が落ちるじゃん
実際情報学的な観点では普通にデジタルデータになって情報が落ちる
現代の人間がベンヤミンを読む場合、情報理論の観点がないとダメなのかもしれないが私には何もわからないので...
ベンヤミン的には技術の発展がコアだったらしい
なおさらディジタルの観点欲しいじゃん
でもまあ未発達の段階の複製技術から、将来これが人間の価値観を揺るがすよねという洞察がすごいという話
芸術作品は、それが存在する場所に、一回限り存在するものなのだけれども、この特性、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けているのだ。
キターーーーーーー
ふと、写本という概念を想起した
写本しか残っていない文学作品は、オリジナルと同じであることを何も保証されていないわけだが、普通に人の心を動かすわけだし、
そもそも大筋が正しそうという前提で読まれたり分析されたりしている
ドラクロワやレオナルド・ダ・ヴィンチのようにオリジナルの絵が傷んだ場合を引き合いに出す
しかしアウラという概念は難しくないか。作品が真正なものである(歴史的に変わらず事実として存在し続けている重みがある)ということと、それに伴う権威や重みがアウラということで、複製技術はその真正性や権威をあやふやにする
完全にディジタルなものであればアウラがないよねというのは理解できてきた
そして、アウラは受容者の側に発生するものだと
複製技術時代の受容者にはアウラはもはや感じ取れなくなるよと
もう一つ想起したのは日本の伝統芸術、江戸木版画の浮世絵のことである。
複製を作るプロセスの随所に「手製の技術」が介在する余地があるのでまた扱いが違うのか
アウラ=共同幻想
ウージューぬ・アジェ
ハレとケ、ケの写真
アウグスト・ザンダー
アウラが消える=写真が美学から切り離される=その時の事実や記録、人間を純粋に残す=情報化