2021年2月24日 その後の分人と分人主義
「分人(ディヴィジュアル)」は、平野啓一郎『ドーン』(2009年)に出てくる。
自分が結ぶ人間関係ごとに「わたし」がある、と理解すればいいだろうか。
1対1の人間関係に限らず複数人との関係ごとに「わたし」を使い分ける。
どの「わたし」も(どの人間関係においても)本当の「わたし」だと思っている。
作中、ネット上に《散影》というシステムが存在し、個人の持つ複数の分人に関する情報を統合し、検索可能となっている。
つまり、自分の家族や友人が持つ全ての分人について知り得るシステムが存在し、相手の別の「顔」を知ることができるし、自分自身についても同様である。
こういう人間関係のあり方を肯定した考えが「分人主義(ディビジュアリズム)」と言える。
「分人」と「分人主義」は、社会学で言えば「多元的自己」概念で説明できるだろう。
現実には《散影》のようなシステムは存在しないけれど、GAFAが提供するWebサービスがそれに近いだろう。
しかし、自分が普段見聞きしない、家族や友人の別の分人について知りたいと思うか。知られたくないと言ってもネットで検索すればすぐわかるよね。
それを良しとするかどうか、考え込むね。
上記のブログ記事を書いてから数年が過ぎました。私たちは日々、ソーシャルメディアを使い分けながら、分人としての日常を過ごしている。
分人主義という考え方も否定されてはいない。
ただし、作中の《散影》のような完璧なシステムはまだ存在せず、GAFAが提供するWebサービスを駆使してまで、個人が持つ全ての分人を把握するインセンティブを私たちは持たないだろう。
やろうとしてやれないこともないけれど、その労力に見合う利益はないよね。
普通に暮らしていればそういう暇は無い。
私たちは(そういう表現をするかは別としても)分人という考えや分人主義を受け入れてはいる。
ただし、自分と相手の関係という文脈の外にある分人までを把握したいわけではないし、把握されたくもない。
作中、《散影》は匿名性の高い都市を「誰もが顔見知り」の「小村的世界」へと変えるツールだと説明されています。
これはこれで選択肢としてはあり得るだろう。
しかし、村(的な人間関係)は楽しいことばかりではなく、苦しいこと、辛いこともある、実は都市(的な人間関係)のままでいることの方が楽しいんじゃないか。
このように私たちは考え、納得しているのかもしれません。