美味
学問の起源
知恵と戦いの女神ミネルヴァは、ユピテルの頭を割るとその中から、兜を被り手に槍をもち、全身を武装した姿で飛び出してきたといわれている。が、学問というものはミネルヴァと違って、最初から完全なかたちで生まれ出てくるものではない。
それは時間の娘であり、少しずつ、段階を経て、知らず知らずのうちにかたちづくられる。
最初は、経験によって得られるさまざまな知識を集積することによって。次いで、それらの知識から導かれる共通の原理を発見することによって。
だから、その経験と知恵を頼りにされて病人の枕もとに呼び集められた老人や、傷ついた人を見たら手当をせずにはいられない同情心に厚い世話焼きたちが、今日の医学者の祖先なのである。また、いくつかの星が一定の期間の後に再び天空の同じ位置に戻ってくることを観察したエジプトの羊飼いこそ、最初の天文学者であるといってよい。
Miyabi.icon文才えぐい
美味学の定義
美味学の定義
美味学とは、ものを食べる存在である人間に関わるあらゆる知識を、体系的に理論づけたものである。
その目的は、できるだけ上質な栄養を摂ることによって、人間の生命を存続させるよう努めることである。
そして、その目的を達するには、およそ食べものになり得るすべてのものを探索し、提供し、準備する役目の人びとを、一定の原理に従って、よろしく指導しなければならない。
であるからして、実を言えばこの美味学こそ、農夫、ブドウ摘み、漁師、狩人、そして数多くの料理人たち、またその名称や肩書はなんであれおよそ食べものの供給や準備に関わるすべての人たちを、その行動に駆り立てる原動力なのである。
美味学は、
(1)食用になる物質を分類することから、自然史(博物)学につながる。
(2)それらの物質の成分や性質を研究することから、物理学につながる。
(3)それらの物質を分解したり分析したりすることから、化学につながる。
(4)それらを調理して味覚を愉しませるものにすることから、料理術につながる。
(5)それらを買うときはいかにして安く仕入れるかに心を砕き、売るときはいかにして高く売りさばくかに心を配ることから、商業にも深く関係する。
(6)そして、それらは課税の対象ともなり、また国と国との交易の対象ともなることから、国家の経済政策にもおおいに関係するのである。
美味学は、人の一生を支配する。
人は生まれ落ちたそのときから泣き声を上げて母の乳を求め、いままさに死なんとする臨終のときでさえ、もう消化する力もないというのに、最後のひと匙を啜ることにたとえわずかでも至上の悦びを見出そうとするのである。
美味学は、社会を構成するすべての階層に関わりがある。
王侯貴族の華麗なる食宴を差配するのも美味学なら、卵は何分間ゆでればちょうどよいゆで加減になるのかを教えるのもまた美味学なのだから。
美味学がかかわるさまざまな事柄
美味学は、味覚というものを快楽と苦痛の両面から考えようとする。
美味学は、味覚が享受する興奮は段階を追って漸進的に進行することを突き止めた。したがって美味学は行動に規律を与え、たしなみある人は決してこの矩を超えてはならない、という限界を設定した。
美味学はまた、食べものが人間の精神、想像力、知性、判断力、勇気および感受性に、寝ていても覚めていても、働いていても休んでいても、絶えず影響を与えていると考える。
それぞれの食品の食べごろを決めるのも美味学である。食品は、すべてが同一の条件の下で提供できるものではないからである。
ある食品は、完全に発育を遂げる前に食べなければならない。ケイパー、アスパラガス、乳飲み仔豚、ハトのヒナ、その他ごく若いうちに食べることになっている動物たちがそれである。
またある食品は、十分に発育して本来の成熟に達した段階で食べる。メロンほか大多数の果物類、羊、牛、その他の成育した動物がこの部類に入るだろう。
そして、ある食品は、腐敗して分解がはじまる頃に食べるのがよいとされる。ネーフル、ヤマシギ、とりわけキジの肉がそうである。
最後に、ジャガイモやマニオックなどのように、毒のある部分を除去してから食べなければならない食品もあることをつけ加えておこう。
美味学は、食品をそれぞれに異なる品質に応じて分類し、たがいに取り合わせるのに適当な食品を選び、またそれぞれの滋養の程度により私たちの毎日の食事の基本をになうべき食品と、副食物として食卓を飾るべき食品、とくに必要でないけれどもあると楽しくなる食品、会食の雰囲気を盛り上げるのにケかせない食品など、それぞれの役割を区別する。
美味学はまた、時と場所、天候に応じて、どのような飲みものが合っているかについても深い関心を抱いており、それらのつくりかたや保存の方法、とくに、それらをどのように計算された順序で供するかを教示する。そうした細心の配慮があってこそ飲酒の快楽というものは、時とともにじわじわと興趣が高まって、快楽の果ての濫用に至るまさにその直前に、最高潮に達することができるのである。
美味学の効用
美味学の知識はすべての人間にとって必要である。が、それは人間に与えられた快楽の総量を増大してくれるものであるから、この効用は、富裕な階層になればなるほど顕著なものとなる、といってよい。とくに莫大な収入があって多くの客人を接待するような金満家たちには、その宴席が体面上必要なものであれ、趣味や道楽によるものであれ、単に流行に引きずられたものであれ、美味学の知識は必要だくべからざるものとなってくる。
そのような人たちが美味学の知識を持つと、接待の宴席にもなにかしら個性的な魅力が加わるだけでなく、なにかと自説を押しつけようとしてくるうるさい相手にも、一目置かせるばかりか、ときには黙らせることさえできるのである。
スービーズ公爵が、ある日、祝賀の会を催そうと思い立った。式の次第は軽い晩餐をもって終わることとし、まずはその献立を考えさせることにした。
朝、公爵が目を覚ますと、見事な縁飾りのついた紙挟みを抱えた料理長があらわれた。示された食材のリストを見ると、ハム50本、と書いてあるのが目に入った。
「なんだ、ベルトラン、いくらなんでも・・••••」と、公爵は仰せられた。
「いくらなんでも、ハム50本とは大袈裟な。まさか、わしの連隊の全員を呼ぶつもりではなか
59第3章 美味学についてろうに」
「いえ、お言葉を返すようですが公爵さま、食卓にのぼるのはそのうちの1本だけでございます。でも、そのくらいに余分がありませんと、自慢のソース・エスパニョールも、黄金色のフオンも、こまごまとしたガルニチュール()の数々も、それから・・・・・・」「ならぬベルトラン、これではまるで盗つ人じゃ。この項目は認めるわけにはいかんぞ」「ああ、閣下、なんということを」
誇り高い料理人は、憤怒に打ち震えながらも押し殺した声でこう反論した。
「閣下は手前どもの腕前をご存じないとでもおっしゃるのですか。仰せとあらば、御意にかなわぬ50本のハムを、親指にも足らぬ小さなガラス瓶の中に押し込んでご覧にいれましょう」これだけ自を持って言われたら、誰が反論できょうか。公爵はニッコリ微笑み、黙って軽
く頷いた。こうして、ハム50本の要求は見事に通ったのだった。
美味学の政治に及ぼす影響
誰もが知っているように、いまなお自然状態に近い種族のあいだでは、多少なりとも重要な議題は食卓で協議される。未開な人びとは、宴会の最中に戦争か平和かを決するのである。いや、それほど遠い国まで行かなくても、わが国でさえ村ではあらゆる決めごとを居酒屋の談義で決めているではないか。
このような事実を、もっと重大な問題をしばしば協議しなければならない者たちが見逃すはずはない。彼らは、満腹になった人と空腹を抱えた人は、同じではないことを見て取ったのだ。
60ろうに」
「いえ、お言葉を返すようですが公爵さま、食卓にのぼるのはそのうちの1本だけでございます。でも、そのくらいに余分がありませんと、自慢のソース・エスパニョールも、黄金色のフオンも、こまごまとしたガルニチュール()の数々も、それから・・・・・・」「ならぬベルトラン、これではまるで盗つ人じゃ。この項目は認めるわけにはいかんぞ」「ああ、閣下、なんということを」
誇り高い料理人は、憤怒に打ち震えながらも押し殺した声でこう反論した。
「閣下は手前どもの腕前をご存じないとでもおっしゃるのですか。仰せとあらば、御意にかなわぬ50本のハムを、親指にも足らぬ小さなガラス瓶の中に押し込んでご覧にいれましょう」これだけ自を持って言われたら、誰が反論できょうか。公爵はニッコリ微笑み、黙って軽
く頷いた。こうして、ハム50本の要求は見事に通ったのだった。
美味学の政治に及ぼす影響
誰もが知っているように、いまなお自然状態に近い種族のあいだでは、多少なりとも重要な議題は食卓で協議される。未開な人びとは、宴会の最中に戦争か平和かを決するのである。いや、それほど遠い国まで行かなくても、わが国でさえ村ではあらゆる決めごとを居酒屋の談義で決めているではないか。
このような事実を、もっと重大な問題をしばしば協議しなければならない者たちが見逃すはずはない。彼らは、満腹になった人と空腹を抱えた人は、同じではないことを見て取ったのだ。
第4章 食欲について
食欲の定義
日々の運動と生活によって、生体の内部にはつねに物質の消耗が生じている。
したがって、この精妙なメカニズムによって働く人体は、要求される消耗に体力がついていけなくなる瞬間が来ることを告してくれる装置がなかったとしら、たちまちその機能をストップさせてしまうだろう。
そのためのモニター(検知器)が、食欲なのである。食欲によって、私たちは食べたいという欲求の最初の知らせを受け取るのだ。
食欲は、まず胃の中の弛緩あるいはわずかな倦怠感、そして軽い疲労感として感知される。
と同時に、その欲求にふさわしい精神作用が働いて、これまでに食べておいしかったものの味を思い出したり、そのときの光景が目の前によみがえったり、なにかしら夢を見ているような感覚に襲われる。
このような感覚は、決して悪いものではない。私たちは無数の同好の士たちが、こんなふうに心からの歓びをあらわして叫ぶのを聞いてきた。
「よき食欲を持つことは、なんと素敵なことだろう。とりわけ、もう少しすれば間違いなく素晴らしいご馳走にありつけるとわかっているときは、なおさら!」
第11章 食卓の快楽について
およそこの世に生を与えられた万物の中で、人間ほどたえず苦痛にさらされている者はいない。原始時代から、丸裸の皮膚や足など、それだけで苦痛なのに、さらに戦争と破壊の本能までつきまとう。そのうえ、病気による苦痛や刑罰による苦痛など、数え上げればきりがない。
Miyabi.icon良い
快楽のほうは、一部の器官が一時的に享受するだけで、苦痛に較べればその力は弱く、持続も短い。しかし、そうであっても、もろもろの苦痛から逃れようとするために反対方向を求める気持ちが働いて、私たちは、天が残してくれたわずかな快楽に、ひたすら固執しようとするのである。
バッカス(酒の神)も、コモス(食卓の神)も、アルテミス(狩猟の女神)も、新しい厳格な宗教の前に姿を消し、今日では詩の中で回想されるに過ぎない。しかし、その実体は残っていて、だから私たちはもっとも厳粛な仰のもとにありながら、結婚のときも洗礼のときも、いや葬式のときでさえ、盛大なご馳走を食べるのである。
食の快楽と食卓の快楽との違い
食卓の快楽とはこのようなものであるから、それにかならず先立つ食の快楽とは、はっきりと区別しなければならない。
食の快楽とは、一つの欲望が満たされたという、現実的かつ直接的な感覚である。
食卓の快楽のほうは、食事に伴うさまざまな要素、場所だとか、物だとか、人だとかいったものから生じる、省察的な感覚である。
食の快楽は人間にも動物にも共通のもので、空腹とそれを満たすものさえあれば事足りる。
しかし、食卓の快楽は人間にだけあるもので、料理の準備だとか、場所の選択だとか、会食者の招待だとか、食事の前のさまざまな気配りが大事なのである。
食の快楽を得るには、飢えとまではいわなくても、少なくとも食欲が必要である。しかし食卓の快楽は、多くの場合このどちらにも依存しない。
第9章 グルマンディーズについて
私はいろいろな辞書で「グルマンディーズ」という言葉を調べてみたが、満足できるような説明はどこにも見当たらなかった。
どれを見ても本来のグルマンディーズを「大喰らい」とか「食食」とかいう言葉と混同しているばかりで、そこから推論する限り、辞書の編集者というものは、もちろん尊敬すべき存在であるには違いないけれども、美味この上ないヤマウズラの翼肉をいとも優雅な手つきで召し上がり、小指をちょんと跳ね上げてラフィットだとかクロ・ヴージョだとかの美酒のグラスを傾ける、あの愛すべき学者がたとはいささか趣きを異にするようである。
彼らは、アテナイの優美とローマの豪奢とフランスの繊細とを兼ね備えた、社交術としてのグルマンディーズというものを完全に忘れている。賢く気の利いた配列と構成の妙、巧妙で手際のよい処理とその技術、情熱に満ちた賞味と怜悧で奥深い鑑賞。グルマンディーズのもつこれらの尊い特質は、もはやひとつの美徳と言ってもよく、少なくとも私たちにとってはもっとも純粋な享楽の源泉なのである。
定義
私たちは、グルマンディーズを以下のように定義する。
グルマンディーズ(美食愛)とは、味覚を悦ばせるものを、情熱的に、理知的に、常習的に愛好する行為をいう。
飲暴食はグルマンディーズの敵である。無闇に食べ過ぎたり酒に酔い潰れたりする人たちは、すべてグルマン(美食家、すなわちグルマンディーズを実践する人)の名簿からその名前を抹消される。
グルマンディーズには、フリアンディーズ(甘いもの好き)が含まれる。フリアンディーズとは、同じく美食を愛するが量は少なくてよく、おいしいものを少しだけ食べること、また、ジャムやお菓子など甘いものが大好きなことをいう。これは女性または女性に似た男性のための、変形版グルマンディーズといえばよいだろうか。
どのような観点から見ても、グルマンディーズは賞賛され、奨励されるにふさわしいものである。
肉体的に言えば、それは消化作用に関わる諸器官が完全に健康な状態であることの証左であり、結果である。
精神的に言えば、それは造物主の命令に絶対的に服従することである。造物主は私たちに、生きるために食らうことを課し、そのために食欲をもって誘い、美味をもって支え、快楽をもって報いるのだから。
哲学的反省
魚は、その種を集めてみると、哲学者にとって尽きることのない瞑想と驚嘆の源泉となる。
これら不可思議な動物たちの、無限の変化に富んだ形状、彼らに久落している感覚、あるいは与えられていたとしてもきわめて限られた感覚、その存在のかたちの多様さ、彼らがそこで生きることを運命づけられている環境の違いにより、呼吸から動作まですべてが規定されている、そのありさまを想像しただけで、私たちの思考の範囲は際限なく広がり、物質や運動や生
命に関するあらゆる言説が修正を迫られる。
Miyabi.icon過言だろWWW
私について言えば、私は魚たちに対してある種の尊敬に似た気持ちを抱いている。それは、彼らが明らかにノアの大洪水以前から存在していたという私なりの確から生じるものである。
まったく、天地創造後1800年を過ぎた頃に私たちの遠い祖先を溺れさせたあの大災害も、魚たちにとっては単なる歓喜、征服、婆宴の一時期に過ぎなかったとは…・...。