感覚の力
1薔薇の香り西洋における花のシンポリスムと頭覚の週落
近代初頭以来、西洋文化において嗅覚の地位が潤落したことは多くの学者が論じている。アラン・コルバンはフランスにおける嗅覚の社会史のなかで、「嗅覚は[十八世紀以降]たえず貶められてきた」と書いている。E・T・ホールは近代西洋の嗅覚の貧困を次のように強調している。「脱臭剤を使って公共の場から匂いを排除するあまり、ほかでは類を見ないほど退屈で単調な香りの世界となった」。
近代西洋文明において後退したのは匂いだけでなく、匂いのシンボリズムも同様であった。たとえば、「聖者の芳香」や「罪の悪臭」などのかつては優勢であった宗教的概念も、今日では人々がなんでも軽々しく肩じていた時代の風変わりな表現とみなされている。また、香りは健康や病気を左右するという通説も科学的根拠のないものとして排床されてしまった。
この嗅覚の後退は視覚の隆盛と入れ替わったように思われる。
啓蒙時代以降、視覚と視覚イメージの価値が上昇してきたことは、とりわけミシェル・フーコー、ウォルター・オング、ドナルド・ロウがその著作のなかでくわしく論じている。たとえば、ロウが『中産階級の知覚の歴史』のなかで書いているところによれば、十七世紀後半から十八世紀にかけて「活版印刷文化、視覚の優位、空間表現の秩序などで成り立つあたらしい知覚領域は、今までの(非視覚的感覚が強調されていた)知覚領域をはるかに凌いでいた」。
Miyabi.icon感覚の劣位
本章では、この感覚の変遷について、西洋文化の一要素である花ーとくに花の鑑としての薔薇
1にたいする人々の態度の移り変わりをたどりながらみていきたい。花は時代をとおして生活のなかで広く使われ、さまざまな象徴の対象であった。そして、その特徴がまさに香りと見た目の美しさにあるため、本研究には格好の題材になると思う。西洋史のある時代において、このふたつの特徴がどのように位置づけられていたかを比べれば、その当時の視覚と嗅覚の価値づけを知る指標となるだろう。諸感覚が現実をとらえるイメージ、諸感覚に与えられている文化的価値はさまざまなので、諸感覚のバランスの移り変わりを調べれば、それぞれの位置づけがわかり、概念的・文化的な重要度があきらかになるだろう。
ウォルター・オングによれば、近代西洋の多くの特徴ーとりわけ、統合より分析、関与より無関心、本質より現象の強調ーは視覚の強調と無関係ではない。視覚が万物を感じとる方法も、(すくな
本章では、この感覚の変遷について、西洋文化の一要素である花ーとくに花の鑑としての薔薇
1にたいする人々の態度の移り変わりをたどりながらみていきたい。花は時代をとおして生活のなかで広く使われ、さまざまな象徴の対象であった。そして、その特徴がまさに香りと見た目の美しさにあるため、本研究には格好の題材になると思う。西洋史のある時代において、このふたつの特徴がどのように位置づけられていたかを比べれば、その当時の視覚と嗅覚の価値づけを知る指標となるだろう。諸感覚が現実をとらえるイメージ、諸感覚に与えられている文化的価値はさまざまなので、諸感覚のバランスの移り変わりを調べれば、それぞれの位置づけがわかり、概念的・文化的な重要度があきらかになるだろう。
ウォルター・オングによれば、近代西洋の多くの特徴ーとりわけ、統合より分析、関与より無関心、本質より現象の強調ーは視覚の強調と無関係ではない。視覚が万物を感じとる方法も、(すくなくとも、西洋における感覚の価値観によれば)おなじような特徴があるからだ。オングは次のように書いている。
視覚は外面しか把握できない。内面そのものには近づけない。視覚はいつでも、内面をなんとか外面として扱わなければならないのだ。もし知性を・聴覚や・・・嗅覚、味覚をともなわない視覚のみのアナロジーで考えるならば、知性はまさにそのことによって、外面しか扱うことのできぬ運命に追いゃられる。そして知性にはけっして到達できない領域が存在することになる。
一方、嗅覚はもともとその性質上ものの本質にかかわっている。生命の源となる呼吸は内部と外部をダイナミックな交換によって結びつける。したがって嗅覚は視覚とはひじょうに異なった概念をかたちづくる。西洋社会において嗅覚が凋落し、視覚が隆盛したといえるならば、それは諸感覚にたいする嗜好が変わっただけでなく、それに対応する文化的・概念的パラダイムも変わったといえるだろう。このようなパラダイムの変港は、西洋において嗅覚と視覚の古典的理想美を象徴する薔薇の花にもその痕跡を残しているはずである。
古代社会における香り
「薔薇無くして何ができよう」ギリシア
ギリシアやローマでは珍重
ひじょうに広く用いられたので、それに比べると近代の香水の使用も色あせて見えるほどである。ギリシア人は熱心な香りの鑑定家であったので、身体の各部分にそれぞれ異なる香りをつけることさえあった。詩人のアンティパネスは裕福な男性の浴室を次のように描写している。
一彼はおおきな金めっきの浴槽で入浴する国は芳醇なエジブトの香に浸しのごとには濃厚な那子酒をすりこみ
両腕にはミントのもたらす芳香
旨と髪にはマジョランを
膝と首にはいたタイムのエッセンスをすりこむ(ジェンダース『匂いの歴史』から
初期キリスト教の教父たちは、香りと薔をローマ人の「周像崇拝」や官能主義につながるものとして排床した。アレキサンドリアのクレメンスは、「牛が鈴と縄で牽かれるように、快楽への耽溺は燻香、軟膏、花冠の芳香によって導かれる」と述べている。
キリスト数による匂いの抑圧はほかの感覚の抑圧とともに行なわれた。キリスト教の生活様式は簡素と自己否定を特徴とするからだ。ギボンは『ローマ帝国衰亡史』に初期キリスト教徒について次のように書いている。
天国を求める峻厳な候補者は、たんに味覚や嗅覚のような粗大な誘惑を拒絶するのみならず、世俗の楽の音にたいして耳を塞ぎ、人間の芸術のもっとも完成した傑作を無関心に見るように教えられ
た。 (村山勇三訳)
ところが、これら初期キリスト教徒たちは香りとお香の使用を糾弾し否認しながらも、当時の嗅覚のシンボリズムから自由であったわけではない。たとえば、オリゲネスは、お香を焚くと益よりも害のほうが多い、というのも悪魔は歴を食べて生きているからだと言っている。また、アテナゴラスは、神は「焼けた供物の匂い花の芳香やお香を」必要としない。なぜなら「神自身が完璧な芳香であるからだ」と述べている。
Miyabi.icon5世紀ごろから匂いも取り込むようになった
十字軍が東洋から香辛料と匂いをもたらした
視覚は嗅覚に勝るか
十八世紀に庭園に与えられたおもな役割は、目を慰め、心を慰めることであった。そのためになされた最初のステップは、従来庭園をとりまいていた壁をとりはらい、視野をさえぎることなく、地所の境界線をひく棚=堀を築くことだった。この種の棚=堀は、「近くにきてはじめて気づいてハハーなるほどと思う」ので、「隠し堀」とよばれた。もはや壁に邪魔されることなく、「視野はさえぎられずに山や谷へとひろがり、視覚に無限のイメージが与えられた」。
十八世紀の庭園様式におけるこの視覚中心主義は、遠近の釣りあいとそれぞれの庭の眺め、光と影、直線と形などに注意が払われたことに明白にみられる。事実、風景画はイギリスにはじまり大陸に普及していったこの新しい様式の理想をつくりだした。風景式庭園では、香りはあきらかに二次的なものでしかなかった。造園家によっては、植物や花の香りをまったく無視して視覚に熱中した者もいたようだ。一七七九年にヴァイセサマス・ノックスは『庭の楽しみについて』に書いている。
十八世紀の造園の視覚的流行におもに影響を与えたのは、啓蒙主義の視覚中心の哲学であった。かって視覚は、たとえば大聖堂の尖塔やステンドグラスの窓のかがやく色を見つめることによって、魂を神に導く重要な手段であった。しかし、このことは視覚に限ったことではない。すべての感覚が多かれ少なかれそれぞれの方法で同様な機能を果たしうると考えられていたからだ。ところが、視覚が、台頭しつつある科学の分野と結びつけられるようになると、視覚こそが万物の知識を獲得する唯一の手段として強調されるようになった。したがって、暗黒時代が視覚の劣勢ゆえに文字どおり暗黒であったとすれば、啓蒙時代は視覚が万物を認識するための基本型を提供するようになったため、文字どおり啓蒙(啓明)の時代であった。
この視覚への移行は十七世紀後半にはじまった。ジョン・ロックが『人間知性論』のなかで視覚を基
艦とした精神活動を強調したことは、デカルトがその著作のなかで視覚は科学技術にとってもっとも重要な感覚であると論じたことと共に、視覚重視の傾向へすくなからぬ影響を与えた。啓蒙主義哲学で視覚が偏好されたため、そのほかの、たとえば宗教や庭といった生活面でも、視覚が重視されるようになった。ウィリアム・サンダーソンは、視覚の宗教的価値についての自分の意見を風景式庭園の計画にとりいれたが、視覚は「人間の形式と完成である。視覚によってわれわれは聖なる自然に近づけるのだ。われわれは見るために生まれてきたようなものだ」と書いている。