ガダリ
て、たとえば糞便への固着化)とお金への執着とのあいだに必然的な通路は存在しない。
いわゆる肛門期>(触覚、嗅覚、周囲に対する遊戯的挑発、等々)に対応する記号化の様式は、”ある条件の下においては”、貨幣的交換の記号的構成要素や、夢によって発動する<図像的>あるいは知覚的な構成要素と接続するかもしれない。あるいは精神分析的な解釈や精神分析の特殊なメタ言語が包含する構成要素と結びつくかもしれない。しかし、このような結合が、発達心理学の原型的段階やシニフィアンの連鎖、あるいは無意識のマテーム)などを起点にしてプログラム化されると考えるのは馬鹿げている。この場合、われわれは、対象や段階>や心理的審級など、シンタックスのように構造化された無意識の(不変的要素)をなすものがかかわっていると考えるのではなく、逆に、特殊な型の(記号的構成要素の動的編成)を起点にして考えることを提案したい。この動的編成は、”一定の条件の下で、あるとき突然”、無意識の真の構造、われわれが無意識の機械と呼ぶものを開示する。
動的編成を考える
動的編成は以下の三つの集合体で考えられる。
精神分析家が糞便=お金というマスターキー的な等式を適用して夢の解釈を行なうとき、彼はさまざまな言表行為の動的編成の実践的な構成要素を好き勝手に混同しているのである。この実践的な構成要素は、われわれがすでに喚起した例を参照すると、次の三つの集合体にしたがって区別することができる。
(a)自分の糞便と戯れる子どもの活動 これは家族のあり方や、子どもを取り巻くものや諸関係からなる世界全体と密接不可分である1に対応する欲望の動的編成。
(b)患者が精神分析家に夢を語る(そこで糞便そして/あるいはお金が話題になる)という事態に対応する動的編成。この事態は談話的な言表と図像的な表象を解釈する技術と密接不可分であるが、この技術は次の二つのものに依存している。(1)覚醒時における患者を対象とした解釈格子。(2)精神分析の制度的機関によってつくられた解釈格子。
(c)お金の現実的な操作に対応する無意識的な動的編成。この操作はもちろん一定の社会における経済的・社会的な従属化の様式をともなった特殊な諸関係を維持するものであるが、おそらくそこでは多様な動的編成が機能していて、お金との関係)は、たとえば精神分析家とその患者とのあいだ、あるいは母親とその子どもとのあいだ、食料品屋と子どもとのあいだでは、まるで異なっているだろう。
aは、環境と夢の構成要素の動的関係
b患者と精神分析者の関係
1.夢を語る事
2.図像的な表象を解釈する技術
(1)覚醒時における患者を対象とした解釈格子。
(2)精神分析の制度的機関によってつくられた解釈格子。
(c)お金の現実的な操作に対応する無意識的な動的編成。
Miyabi.icon文化などで異なる
[]シニフィアンの専制
分析家は自らの混合主義によって、自らが直面している多様なタイプの言表行為の動的編成を破砕し、自らが作動させる記号的諸要素をごちゃまぜにすることになる。彼らは象徴界>にいるのだと主張し、現実の状況、つまり社会的地層化ならびに表現と生産の様式の物質性に基づいて差異をなす>すべてのものを彼らの領分とは本質的に無関係であるとみなす。彼らは、事実上、彼らの<対象)が巻き込まれている政治的かつミクロ政治的な争点をあっさりと脇に退け、、いかなる普遍的
解釈よっても手に入れることができない権力にかかわるコンテクスト・力関係・特殊なテクノロジーの現実的な複合性から目をそらすのである。子どもの遊びから夢や経済的関係に移行する精神分析的解釈のスリップは、こうした状況のひとつひとつの基盤にある無意識的な記号的領域をつかみ損なう。
この<シニフィアンの専制>による諸次元の混同、全面的な記号的崩壊と逆の立場をとろうとする欲望のミクロ政治学は、当然のごとく、無意識に”ひとつの”構造、ある同質的な構造的一貫性を与えいう無意識概念と断絶することになる。このことはいくら繰り返してもいいだろう。すなわち、われわれは絶対に/唯一無二の無意識"とかかわっているのではなく、つねに"無限に多様な無意識”とかかわっているのである。無意識は諸個人を互いに結びつける記号的構成要素の性質からして無限に変化する。そこには身体的・知覚的な機能をはじめ、制度、空間、装備、機械、等々が包含されている。
この言語と無意識の関係の問題について、フロイトはフランス精神分析の構造主義的潮流よりも慎重な立場をとっていた。彼は、ものの表象(ザッハフォルシュテルング)→今でいう図像的秩序ーと、言葉の表象(ヴォルトシュテルング)ー言語的秩序1とを場所論的に区別しようとしていた。しかし、だからといって彼は、イメージに対する言葉の優越性を小さく見積もっていたわけではない。というのは、無意識的な一次過程はものの表象から決して完全に脱却することはできないが(たとえば夢や分裂症においては言葉をものとしてあつかう)、前意識-意識状態のシステムだけがこの二つのタイプの表象を結びつけることができると考えていたからであぶ。たしかに、こうした優越性が存在することは疑いないだろう。しかしそれはある種のケースにかぎられる。たとえば特殊な権力構成体を背景とした世界、自人の文明的で男性優位的で学校化され階層化された普通の昼間の世界、われわれがおおまかに資本主義的と形容する世界でのみ通用するのである。ここで資本主義というのは、一種の流れの脱コード化の拡張をもとにして機能する社会システムの総体のことである
フロイトはものの表象、すなわち図像的秩序と、言語的秩序を場所論的に分類していた。
Miyabi.icon場所論的、とは。空間的、構造的にということ。
イメージに対する言葉の優位性はあると考えていた。
この資本主義的形成体の特徴のひとつは、他のすべての記号的構成要素を超コード化するある特殊なタイプの記号的機械に依拠するということである。この記号的機械が、社会的領野や個人の次元のみならず生産の次元においても、あらゆる流れを操作し方向づけるのである。]この機械によって機能する脱領土化された鎖は、それ自体としては有意的ではないが(たとえば言語の連辞的な鎖や、科学的、テクノロジー的、経済的、等々の記号機械の鎖の場合、非-有意的とも言える)、有意的な中身と特殊な関係を維持する。それらの鎖は、有意的な中身を序列化し、基本的に権力構成体(たとえば学校機械、軍事機械、法的機械、等々)のために働く従属化機械として機能する単一的な記号の格子をもとにしてその中身を軽序し、それにともなって有意的な表現様式として作用する。逆説的にも、構造主義者が有意的なものとみなしシニフィアンと形容するのは、この資本主義的構成体によって作動する非-有意的な鎖にほかならない。彼らはこれを一種の普遍的な構造の構成要素とするのである。構造主義者によると、構造があるところにはどこにでも、このタイプのシニフィアンの素材を見いだすことができ、言語や無意識の次元、コード化の鎖の発生的次元、原始的社会における親族の基本的諸関係の次元、レトリックの次元、文体論や詩法の次元、消費社会の機能様式の次元、科学的言説の次元、等々のすべての次元にわたって同一の節合システムが見られるというのである。
今日、シニフィアンとか象徴的次元というカテゴリーでわれわれに示され、多くの研究者にとって基本的概念、自明の出発点となっている感のあるこの凝固体を解体することが緊急に必要なことであるとわれわれには思われる。というのは、おのおのの動的編成は、互いに根源的に異なった>記号の鎖の連結を行なうのであり、それは初めから一定のシニフィアンの言説として機能するのではなくて、初めはさまざまな非-シニフィアン的記号機械として機能するものだからである。
あらゆる流れを操作し、方向づける機械
→ 資本主義における生産機械は、単に物質的な生産だけでなく、記号や意味の流れも制御し、方向づける機能を持つ。
構造主義者にとっては、こうした記号の流れ表象するもの→されるもの、は普遍的な関係だが、そうではない。
Miyabi.icon記号は単なる今の運搬装置ではなく、それ自体が機械的作用を行う。
超コード化について
記号の流れや社会的機械の中において、複数のコードが統合されること。
社会システムの機械論
運動の反復
構造と機械の違い
静的なものが構造
第一機械
欲望と生産の未開の原始的統一体とは大地である。なぜなら〜自然的或いは神的な前提として〜生産諸力を自分のものとして所有する充実身体なのだから。土地は生産の要素であり、所有の結果として存在するが、大地は、生み出されることなく、初めから存在する
大地
原始的大地機械は不動の動力である大地とともに、すでに社会的機械或いはメガマシンであり、生産の流れ、生産手段の流れ、生産者と消費者の流れをコード化する。〈大地〉の女神の充実身体は、その上で、耕作可能な種、農業用具そして人間の諸器官を結合するのだ。
生産・消費という流れのコード化
第二機械
専制社会論
専制君主機械(≒アジア的生産様式)
>原始機械のコード化されたあらゆる流れは、いまや河口にまで導かれて、ここで専制君主によって超コード化される。超コード化、これこそが国家の本質をなす操作であり、国家が古い組織体と連続すると同時に断絶する事態を評価する操作なのである。
社会的機械の根底的変化
大地機械の代わりに、国家という巨大機械が、つまり機能的なピラミッドが登場し、その頂点には不動の動者である専制君主をもち、側方的表面と伝達器官としての官僚装置を、底辺の労働する部品として村びとたちをもっている。
大地機械のもとでヒトやモノが水平的な運動
↓超コード化
国会という専制君主機械は、君主―官僚―村びとというピラミッドを形成する
縦の構造化
ストックは蓄積の対象となり、負債のブロックは年貢の形をとって無限の関係となる。コードのあらゆる剰余価値は所有の対象となる。〜国家を、住居にしたがって、人びとを登記する領土化の原理とみなすのではなく、むしろ住居の原理を、脱領土化の運動の結果とみなすべきなのである。この運動は、対象としての大地を分割して、人びとを新しい帝国的な登記に、新しい充実身体に、新しい社会体に従属させる。
脱領土化
ヒトと土地との固有の繋がりを解体
単にモノやヒトが物理的に貯蔵される空間に
脱領土化された鎖とは何か?
脱領土化された鎖(deterritorialized chains)」とは、特定の意味やコンテクストに固定されずに流動する記号の連鎖
〜有意化されず〜から。Miyabi.icon
脱領土化された鎖は、それ単体では意味を持たないが、特定の権力構成体(学校、軍隊、法律、経済システムなど)の中で「有意的な中身」と結びつくことで機能する
それらの鎖は、有意的な中身を序列化し、基本的に権力構成体(たとえば学校機械、軍事機械、法的機械、等々)のために働く従属化機械として機能する単一的な記号の格子をもとにしてその中身を軽序し、それにともなって有意的な表現様式として作用する。
こうした脱領土化した鎖は
権力構成体(コード化を与えるものは、こうしたものを序列化する。
有意化する過程は再領土化と言われる。
逆説的にも、構造主義者が有意的なものとみなしシニフィアンと形容するのは、この資本主義的構成体によって作動する非-有意的な鎖にほかならない。彼らはこれを一種の普遍的な構造の構成要素とするのである。構造主義者によると、構造があるところにはどこにでも、このタイプのシニフィアンの素材を見いだすことができ、言語や無意識の次元、コード化の鎖の発生的次元、原始的社会における親族の基本的諸関係の次元、レトリックの次元、文体論や詩法の次元、消費社会の機能様式の次元、科学的言説の次元、等々のすべての次元にわたって同一の節合システムが見られるというのである。今日、シニフィアンとか象徴的次元というカテゴリーでわれわれに示され、多くの研究者にとって基本的概念、自明の出発点となっている感のあるこの凝固体を解体することが緊急に必要なことであるとわれわれには思われる。
構造主義者が「有意的なもの」とみなしているシニフィアンこそが、実は資本主義的構成体によって作動する「非-有意的な鎖」にすぎない、という逆説
シニフィアンは特定の記号圏、ここでは権力構造の中でのみ機能するのであり、普遍性を認めることはできない。
シニフィアン、象徴的次元というカテゴライズやフレームは、資本主義のコード化においてのみ意味があるので、そこから脱すべき。
なぜか?
Miyabi.iconここで動的編成の話に戻る
というのは、おのおのの動的編成は、互いに根源的に異なった>記号の鎖の連結を行なうのであり、それは初めから一定のシニフィアンの言説として機能するのではなくて、初めはさまざまな非-シニフィアン的記号機械として機能するものだからである。これこそが生産的過程や社会総体のなかでわれわれがかかわっているものであり、したがってわれわれはつねにさまざまな記号化の過程や記号の体制に組み込まれているのだから、これを普遍的に通用する鍵に仕立て上げようとするのは馬鹿げているのである。人は決してヘシニフィアン>一般なるものに出会うのではなくて、つねに現場で)さま
きまなジャンルの入り混じった記号的構成要素に直面するのである。言い換えるなら、構造という観点からは測定不可能な可能的事態に開かれた混合的な布置を前にしているのであり、これをわれわれは機械状の創造性と呼ぶのである。シニフィアンの帝国主義は、一種の記号的崩壊を引き起こして表現の構成要素の多声性を失わせ、あらゆる生産様式や社会構成体を権力の記号体系へと誘導する。かくして、われわれの問題は単に理論的なものではなくて、実践的でもなくてはならない。すなわち、シニフィアンは単に言語学者や構造主義的精神分析家の誤りではなくて、どこかに普遍的な基準が存在し、世界や社会や個人とそれらを統御する法則がある必然的な秩序にしたがって構造化されていて、そこには深い意味があるといった確信にわれわれを従属させる何かが日常生活のなかにうごめいているということを示しているのである。シニフィアンはそのようにして権力構成体の現実的な機能様式を隠蔽する基本的な方式なのである。
シニフィアンの帝国主義批判
機械的創造性の概念
人は決して