ブルシット・ジョブの謎
人類学+アナーキズム
1「ブルシット・ジョブ」とはなにか? どんな種類 があるのか?
「 完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある雇用の形態」
(1) 取り巻き flunkies
(2) 脅し 屋 goons
(3) 尻ぬぐい duct tapers
(4) 書類穴埋め人 box tickers
(5)タスクマスター taskmasters
BSJ論は、現代世界を、壮大な「裸の王様」 ゲームの悲喜劇に仕立てている。
「ブルシット」というニュアンスのある言葉でしか表現できない、地球規模で展開している複雑な心理的駆け引きをともなった不条理劇をえがく
2「ブルシット・ジョブ」に就いている人たちはどのような精神的状況にあるのか?
BSJは規定がない。
どうしたらいいのかわからない。
自分を欺く。
世界に影響を当てることが出来ない。
どう悩んでいいのかわからない。
3 「ブルシット・ジョブ」がどうして、こんなに蔓延しているのか?
労働
労働価値説の反転
指揮する経営者こそが価値を生む
労働者=時間
「雇用目的仕事」(「make-work」)
社会主義
ケインズ主義的福祉国家
とにかくなんでもいいから仕事をつくれ、という雇用創出の圧力のもとでつくられる仕事がとくに増殖してきた
工業化が発達し、かつ労働組合の組織化も上昇してきた
BSJ論は、「雇用創出イデオロギー」を根本から相対化している
左派は政府が介入して富を集め、それをばらまく
右派は金持ちが富をかき集め、それをばらまく
近代経済学に対するもっとも手強い批判者である人類学者の多数によれば、「経済人」は近代資本主義社会の神話でしかありません
ネオリベラリズムこそがBSJの増殖を促進している
- 競争構造の導入
- 民営化
- 「全面的官僚制化」
競争構造を導入するためには、すべてを比較対照させねばなりません。
したがって、数量化しなければなりません。
「経営封建制(managerial feudalism)」
いまの資本主義は「 レントの徴収と略奪品の再分配に基盤をおく」、だから封建制と似ている
現在では、いわゆる情報化とかIT化がすすむなかで、従来はモノの売買であったものが、知的所有権への使用料や手数料による取引になりつつあります。
金融化
(1)現代における金融化の過程がある
(2)その過程で企業の利潤がレント取得というかたちをとる
(3)レント取得による利潤がリサイクルされ、BSJのために投入されている
巨額の資金が動くとき、その分配にかかわるシステムにすきまがあれば寄生者のレイヤーがつくりだされる。
4 どうしてそのような状況が気がつかれないまま、放置されているのか?
労働の価値
(1)労働はそれ自体がモラル上の価値であるという感性がある
(2)それが有用な労働をしている人間への反感の下地となっている
(3)ここから、他者に寄与する仕事であればあるほど、対価はより少なくなるという原則が強化される
(4)さらに、それこそがあるべき姿であるという倒錯した意識がある
理由
- (1)労働は人間に与えられた罰であり、人間にとっては苦痛であるという観念
- (本書にはない)
- labor
- 奴隷制
- (2)労働は無からなにかを生みだす創造であろうという観念
- 無からなにかを生みだすという神のイメージが人間、とりわけ家父長制のもとで男性にスライドして「弱められた神の創造」としての労働のイメージとなる。
- 女性は子どもを産む
- (3)労働にはそれ自体で価値がある、しかもそれはモラル上の価値であるという観念
- 「ライフサイクル奉公」
- 男女問わず、かつほとんど身分も問わず、仕事にかかわる人生のはじめの7年から 15 年ほど、じぶんの家族を離れて、修業する
- 貴族の娘
- マナーの獲得
- (本書にはない)
- ギルド
- 徒弟制
エッセンシャルワークを切り下げる
(1)労働はモノを無から創造する生産であるという発想は、ケアの系列にかかわる活動を生産にかかわる活動 としては不可視化し、それによって価値の切り下げをもたらします。
(2)労働はそのものが人間を形成する価値であり、モラルであるといった観念が、プロテスタンティズムをへて強化され、根づいていきます。
(3)しかも、そこには労働は苦痛であるという神学的観念も付随します。
となると、労働とは苦痛である、であるがゆえに、人間を形成するモラルたりうるのであるといった発想になります。
賃労働による苦痛をえてこそ、すなわち身も心も破壊してこそ一人前である、賃労働していても楽そうにこなしていては人間としてどうか、というプレッシャーがある
(1)仕事はそれだけで価値がある。無意味で苦痛であればあるほど価値がある。人間を一人前の人間にするものであり、それはモラルなのだ。
(2)なんらかの無からの創造にかかわるものこそが労働であり、ケアにかかわる仕事は本来、それ自体が報いであり(やりがいという報いがえられる)、それを支えるものであって本来無償のものである。
このような発想が、「その労働が他者の助けとなり他者に便益を提供するものであればあるほど、そしてつくりだされる社会的価値が高ければ高いほど、おそらくそれに与えられる報酬はより少なくなる」といった倒錯が倒錯とみなされずスルーされ、それどころかそうあるべきであると人に観念させる
望ましい社会の実現のためには必要な過程がある。マルクス派の場合、その発想を突いて 20 世紀のスターリニズム体制という、おそるべき倒錯が生まれました。ケインズの場合も、先ほどみたような前BSJ型「雇用目的仕事」の増殖と官僚制国家をもたらしました。この落とし穴をネオリベラリズムはつつきながら、大躍進を遂げる
ベーシックインカムで労働から解放する
グレーバーは、ベーシック・インカムを介して、この多数の人を苦しめている、そしてわたしたちの社会を殺伐とさせている一因としてのBSJの増殖を、労働から解放のヴィジョンによって乗り越えていく道筋を示しています。
グレーバーはBSJのもたらす精神的状況のひとつに、職場の日常的サドマゾヒズム状況をあげ、フロム的精神分析の延長上ですすめられたフェミニズムの分析を応用していました。
いつでも逃げられるなら、こうした、だれも幸福にしないサディズムのゲームを最小化することができる