「論より詭弁」やっつけメモ
かなり面白かった。漠然と感じる違和感を明快に説明してくれた。
印象に残った主張と例:
主張に含まれる細かいニュアンス・ワーディングが印象に大きく影響を与えることがある。我々は自分たちが使うものを「言葉のあや」と呼び、敵が使うものを「詭弁」と呼ぶ。
言葉によって何かを表現するとは、本来順序のついていないもの(性質等)に勝手に順序をつけて並べること。この並び順、順接・逆説の扱い方によって主張の意味合いは変わってしまう。個々の内容が客観的であろうと、表現した以上主観が反映されてしまう。
「事実」と「意見」をわけよという言説がある。それはそうとして、仮に「事実」を淡々と列挙したとしても、敢えてその「事実」を取り上げたということ自体に話者の価値判断が潜む。事実のみを上げたからといって客観的だとは言えない。
タバコを吸ってはならない場所でタバコを吸っていた所、タバコを吸っている別の人からそれを注意された時、あなたが言うなと我々は感じる。しかし相手がどうあれ、私が吸っているのは悪いことに違いはなく、従わなくて良い理由にはならないと思われる。
しかし実際は攻撃して良い。ここで起きていることは、相手がタバコを吸っていることを以て自分の正当性を主張することではなく、自身が悪を犯しながら他人の悪を糾弾する不公平さを攻撃することだ。この論点が自分にとってタバコを吸う悪に比べて優先すべきものであるから、その論点に移行しているに過ぎない。
論点の移行を「論点のすり替え」と言ってはならない。数ある論点のうち何が重要であるかは自由に主張し合い決められるべきだ。
主張の内容と、誰が主張したかは切り離せない。偉い人が言う言葉はどれもそれっぽく聴こえるものだ。どうも我々はこれを「非論理的な聴衆であるが故の仕方の無いこと」と捉えがちだが、そうではない。話者の学識・経験・苦悩・思索等のコンテキストが論証に加わっているのだ。
議論では、何かを主張した側にその立証責任が課される。相手の主張に異議がある場合、異議を主張する前に、相手の主張の根拠を問うのが良い。
e.g. 「あの本はくだらない」に対し、「くだらないとは思いません」と返すと、自分がその根拠を提示する必要が生まれるが、「なぜくだらないと思いますか」と問うと、相手にその根拠を提示する必要が生まれる。
何かの概念の定義を主張すると、聞き手に例外や矛盾を探させる作用が働く。実際あまりに緩い定義には意味がなく、厳しい定義には容易に例外や矛盾が生まれる。複雑な概念に正確な定義を与えるのは難しい。揚げ足取り狙いの問いに対して定義を示す必要はない。これらには「あなたが使う言葉と同じ意味です」と答えれば十分。
e.g. 「あなたは○○をどのような意味で用いていますか」「あなたの言う○○を正確に定義してください」
何らかの行動等を、その性質の一側面を取り出して「名付け」することがある。例えば何かを問う時、問う側は自分にとって有利な言葉を使用することができる。そういった質問に答えるべきではない。
e.g. テロリストに拘束された遺族の問い「国家のメンツを守ることと、国民の生命を守ることの、どちらが大切なのか?」に答えるべきではない。選択の一側面を切り取った表現であって、これに答えることでその側面が強調されることとなってしまう。「テロリストの卑劣な要求に屈しないことと、屈することの、どちらが正しいのか?」と問いを作り直せば良い。