成功は私有化され、失敗は社会化される
起業家は真の意味でリスクをとっていないのではないか、というツイートを見かけた。成功は私有化されるが、失敗は社会に押し付けられる、と。
まあ確かにそういう側面はある。特に日本だと、失業しても、極論生活保護も受けられる。会社は有限責任であり、破産させて取引先にいくらの損失を出そうが身銭を切らなけれいけない訳ではない。一方で、何か新しいことをやる時にはそれなりに他の機会を捨てて時間やお金やあらゆるものを起業家は「賭ける」わけで、全くリスクを取っていないとも思わない。
どちらかというと成功した時に、起業家はその当人だけの力ではなく、あらゆる関係者や運や時流に乗った結果であることを謙虚に受け止めるべきなのだとは思う。成功によって生まれた利潤や富も公共化されるべきである。
僕は、起業家のキャピタルゲイン税強化にも、資本税導入にも賛成なのは、この成功によって得られた富や利潤は本来公共的なものであるという思想があるからなのだと思った。
以下あるツイート全文
シリコンバレーのアントレプレナーが「私はリスクを取ってきた」と武勇伝のように語るたびに思う。
本当にあなたが取ったリスクなのか。
会社が成功すれば、創業者は株式価値と名声を手にする。失敗すれば、社員は職を失い、取引先は損失を抱え、ユーザーのデータや購入したサービスは放置され、地域社会には住宅高騰や交通問題が残り、地球には大量の電力消費、水消費、資源採掘、電子廃棄物が残る。それでも創業者本人は有限責任に守られ、次の会社を始め、「失敗から学んだ」とTED Talkのような顔で語る。
それを「リスクを取った」と呼ぶのは、あまりに都合がよすぎる。
自分が全責任を引き受けるのがリスクテイクである。他人の人生、社会、公共インフラ、環境、未来世代を勝手に賭け札にして、自分だけがアップサイドを取り、失敗時のダウンサイドを社会に押しつけるのは、勇気ではない。単なるリスクの外部化だ。
「Move fast and break things」も同じである。自分の玩具を壊すなら好きにすればいい。だが彼らが壊してきた「things」には、雇用、報道、住宅市場、都市、選挙、子どもの精神環境、地域文化、地球環境まで含まれる。何世代もかけて社会が築いた安全装置や規制を「レガシー」「friction」と見下し、先人の失敗と犠牲から生まれたルールを邪魔者扱いする。そして問題が起きれば「イノベーションには失敗が必要だ」と言う。
必要なのは、あなたの失敗ではない。あなたの失敗の後始末を、無関係な人間にさせないことである。
Jeff Bezosのような億万長者が「大胆にリスクを取れ」と語る姿にも、私は同じ欺瞞を感じる。巨額の資産を持つ人間がさらに一つ事業に賭ける「リスク」と、解雇されれば家賃を払えない労働者のリスクは、同じ言葉で呼べるものではない。まして、自分の意思決定によって発生した社会的・環境的コストを自分のバランスシートの外に追い出しておいて、「私は勇敢だった」と胸を張る資格などない。
成功は私有化し、失敗は社会化する。
利益は自分のもの、損害は他人のもの。
規制を破って市場を取り、十分に大きくなった後で「今さら止められるのか」と迫る。
社会を実験場にし、人間をA/Bテストの被験者にし、環境を無料の資源として使い、それでも自分たちを「世界をより良くする人々」と呼ぶ。
これは勇敢さではない。
責任の所在を巧妙に消すための英雄神話である。
だから私は、シリコンバレーの「Risk Taker」という自己像をほとんど信用していない。
問うべきなのは「どれだけ大胆な賭けをしたか」ではない。
誰が決めたのか。
誰が儲けたのか。
誰が損失を負ったのか。
誰が後始末をしたのか。
そして会社が消えた後も残り続ける損害について、最後まで誰が責任を取ったのか。
その答えが一致して初めて、その人をRisk Takerと呼べばいい。
一致しないなら、それはRisk Takerではない。
Risk Externaliserである。