ドラム式洗濯機とICL
利便性が向上すると、その利便を知る前には戻れない
この前ドラム式洗濯機を買った。一人暮らしを始めてから10年、毎回洗剤を投入し、都度洗濯物を干していたのだが、これから完全に解放された。来た服を洗濯機に入れておき、一定の容量を超えたらボタンを押す。そうすると勝手に乾いた服が出てくる。革命的な利便性であり、前の洗濯機にはもう戻れないだろう。
ICLも数年前にした。毎日コンタクトをつけ、目の渇きに悩まされ、旅行の旅にコンタクトの在庫確保というミッションから完全に解放された。確かにこれも前の状態には戻れない
一方で、慣れたら別に幸福度には寄与しない
縦型洗濯機よりは格段に便利になった一方、数週間もすればそれは当たり前の景色になるので、別になんの嬉しさもない。
ICLも術後数週間はコンタクトをつけないで世界がクリアに見えることに毎朝感動していたが、今は全く何も思わない。
慣れたのである。
人間の欲求は止まることを知らない
スイッチ一つで乾いた洗濯物が出てくるのは嬉しい。その上で、今度は別のめんどくささが生じてくる。着た服の容量がどのくらいか確かめるのもめんどいし、乾かした後の服を移動させるのもめんどくさい。時々フィルターの掃除もしなければいけなしし、ぐちゃぐちゃの状態で出てくるので、畳まれた状態まで自動でやってくれないかなー、などと思う。
視力はおそらく今1.2くらいあるが、もっと見えたらいいのになー、などと思う。ICL前は0.01であったとしても
絶対的な利便性の向上は幸福に寄与しない
川で洗濯板を使って服を洗っていた時より、確かに利便性は飛躍的に向上しているのだが、人は慣れるので幸福にはなんの影響もない。
30年前よりも格段に便利に、ご飯は美味しく清潔な生活を現代人類は享受している。数世紀前は、病気にしろ飢饉にしろ戦争にせよ、いつ死ぬかわからず、現代人から見ると悲惨な生活を過ごしていたわけだが、彼らの幸福度は現代と変わらないだろう。むしろ高かったかもしれない。
ある程度の安全性や食やインフラが整っていれば、物質的な豊かさを追求しても人類は前に進んでいるわけではないのではないか。
資本主義はどこへ向かっていくのだろうか。