学問を分かち合うー京都新聞夕刊「人文知のフロンティア」寄稿
京都新聞の2022年1月26日付け夕刊に寄稿いたしました。人文社会科学をよりよく伝えるには、濃密な語りをストーリーに乗せるとよいですよ、という話をしています。「学問を分かち合う」という素敵なタイトルと紙面の導入文は、京都新聞社の担当の方がつけてくださいました。
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昨年の11月、京都大ヒト生物学高等研究拠点は、iPS細胞(人工多能性幹細胞)研究の倫理的課題を考える、中高生向けのオンラインセミナーを開催した。小中高生を中心とする267名の参加者に対して、講師から「iPS細胞由来の受精卵から人間を作ってよいか」など、生命倫理を真正面から考えさせる問いが投げ掛けられ、活発な意見交換が行われた。開催後に「生命倫理は疎かに出来ない難しい問題だが、多くの人と一緒に考えるのは非常に楽しかった」と感想が寄せられるなど、手加減しない内容が、生命倫理学を学んだ充足感につながったことがうかがえた。
一昨年7月に始まった、京大のオンライン講義シリーズ「立ち止まって、考える」は、人文社会科学の視点からコロナ禍の社会を捉え直す人気企画だ。ライブ配信された講義では、視聴者がYouTubeのチャット欄を通じて盛んに意見を交わし、「白熱教室」を彷彿とさせると評判になった。
こうした人文社会科学の講座が好評を博した要因には、同シリーズの運営を担った大西琢朗氏が振り返るように、レベルを落とさない「濃密」な講義内容があったと考えられる。人文社会科学に高い関心を寄せ、本格的に学んでみたいと思う人々(いわば「濃密層」)は、大学・研究機関の関係者が予想する以上に多かったのである。
これはオンラインに限らず、対面式の講座でも同様だ。一昨年、筆者は「当たり前を疑う歴史学」という市民向け講座シリーズの企画に参加した。第1回講座では、若手の歴史学研究者が、ロシア帝国が中東方面に勢力を伸ばす中で、アゼルバイジャン人という「民族」が形成された過程について、縦横無尽に講義した。あえて分かりやすさを重視せず、濃密に語ってもらうことで、参加者(濃密層)の高い関心に応え、民族に関する固定観念を揺さぶる深い学びへとつながった。
人文社会科学の研究者は、手加減をせず、濃密に研究内容を語り、問いかける。受講者(濃密層)は、その濃密な語りに反応し、議論に参加し、知識と知的充足感を得る。受け手のこうした体験は、学問に直に触れているという質感とともに伝播し、周囲の同好の士を巻き込んでいくだろう。「濃密」さは、人文社会科学を伝える際のキーポイントであり、知の交流を促進する触媒なのである。
こうした人文社会科学の濃密な語りを伝えるには、手法にも一工夫必要である。自然科学を伝える有効な手法に「研究ストーリー」がある。研究の方法や成果だけではなく、研究を始めた背景から、社会に及ぼす影響まで、研究活動全体を一連のストーリーに仕立て、受け手のスムーズな理解を促す手法だ。
この研究ストーリーを、人文社会科学に応用してみよう。筆者が関心を持つ、世界史の新しい叙述方法に、グローバル・ヒストリーがある。従来の世界史理解の刷新を図る方法論だが、その意義を伝えたい場合、例えば次のようにストーリーを組み立てるのだ。
これまでの世界史は、西欧が歴史を駆動し、それが他地域に伝播したとするヨーロッパ中心史観で語られ、アジアなど他地域の影響力が低く評価される問題点があった。そこで、貿易商人や交易品など、グローバルに移動した人やモノのつながり合いに焦点を当て、西欧以外の出来事も重視する、フラットな視点で世界史を叙述する。これにより、人々は一体化が加速する地球において、平和な人類社会を実現するための世界史理解と教養を身につけることができるのだ、といった具合である。
人文社会科学を濃密に語ると、ともすると複雑・難解に傾いてしまう。しかし、このようにストーリーに乗せることによって、受け手は物語を聴くように研究内容を学び、それが社会や自分自身にとってどのような意味があるのか、自らじっくり考えることができるのである。
濃密に語る研究者と、享受する濃密層の市民とが、がっぷり四つに組み合うならば、そこには単純な学問の情報発信とは異なる、「学問を分かち合う場」が現出する。そうした場作りが今以上に広がるならば、社会における人文社会科学の重要性は、誰の目で見ても明らかになってゆくであろう。
人文社会科学の不要論が叫ばれて久しいが、それに対抗する意味でも、濃密層に積極的にリーチする草の根の活動を広げていくことが望まれる。人文社会科学を濃密に分かち合う場作りの向こうに、アカデミアを超えた人文知のフロンティアが広がってゆくのではないだろうか。
紙面イメージ(京都新聞2022年1月26日夕刊3面)
https://gyazo.com/75c66b11681ec7ab80b40e7d8ea7fe3e
※京都新聞社の許諾を得て掲載しています。