東大推薦入試における小論文対策(文学部・教養学部)
一般入試と東大推薦の小論文には決定的な違いがある
一般入試の小論文試験と東大推薦入試の小論文試験、決定的に違うポイントがある。それは受験生の数である。この入試特性をどのように把握して利用するかが合格の鍵となる。
まず一般入試における小論文試験は「落とす」ための問題が作られている。つまり数千人も受験する試験で、できるだけ素早く採点をしなければならない。また採点自体も客観的でなければクレームが生じてしまう。だからこそ合否を判断するポイントは形式面で画一的に決まっている。結論が分かりにくかったらマイナス10点、漢字を一つ間違っていたらマイナス2点、主張と理由付けの論理的接続が不明であればマイナス5点という感じに。
答案を陳腐化させることなく、悩み抜く姿勢を持つ
ところが東大推薦入試の場合は、各学部で受験生の人数はせいぜい多くて二十人程度。教授陣は一つ一つの答案を精確に吟味し、さらに複数の教授同士で答案を囲み、時間をかけて議論しながら点数をつけられる可能性が高い。さらに小論文で書いた内容は文学部では翌日、教養学部では午後の面接で聞かれることが多い。それこそ「あなたは小論文で●●と書いていたけど、それはなぜ?」「この知識はどの文献で知ったの?」「例えば君の主張には××という反論が考えられるけど、それについてはどう思う?」という感じにである。教授は受験生の小論文を徹底的に読み込んできていると、過去の受験生から聞いている。
こうした性質の試験で不合格にならないために重要なのは、答案が「陳腐化」しないことであろう。小論文の試験にしても、何にしても「定石」がある。つまり「お利口さん」に見える答案である。例えば数千人が受験する一般入試の小論文試験で「世界平和の実現法」が設問で聞かれたとする。そこで「多様性を認め合い、皆で協調しあえるような文化を形成するための方策として~を行うべき」という答えは100点は取れないかもしれないが、80点程度に乗る可能性は十分にある。聞こえが良くて、なんとなく皆がうなづく答案だからだ。「世界平和の定義も立場によって異なる以上、皆で気をつけあうべき」という結論も。
ところが答案の一つ一つを精密に審査されるような試験の場合は、こうした当たり障りのない答案は「積極的にその受験生を選ぶ理由」にはならない。東大推薦入試の場合は合格者の定数が決まっておらず、合格者がゼロ人ということもあり得る。故に受験生としては「積極的に選ばれる」水準を絶対的に確保できる答案を書かなければならない。そういう意味では小論文も「自己アピール」の機会なのである。
「積極的に選んでもらう」ためのアピールをどのようにすべきか。一つは「東大がこの試験を通じて何を考えてほしいのかを徹底的に悩む」ことである。出題者は受験生に「このことで悩んで欲しい」という議題を課題文や設問を通して提示している。その東大が提示している「悩んで欲しいポイント」に気づいて真摯に悩めているならば、結論がどうであれ評価は高まる。
東大教授ですら、悩んでいる問題を解かされる。
何より「悩んで欲しいポイント」は東大教授自身も答えが出ずに悩んでいて、ぜひ高校生の考えを聞いてみたいから出題している場合もある。
そうした問題に絶対的な真理や、誰も反論の余地のない論理などを導くことまでは期待されていない。あくまであなたが「悩んで、どこまで辿り着いたのか」を見たいのである。面接で小論文の内容が聞かれるのも「もっと先の議論に進めてみてよ」という東大教授からの挑戦状である。小論文の内容に小言を突かれても、決してあなたの答案が酷かったという理由ではないから安心して欲しい。むしろ面白がってもらえているのである。
万が一抽象的な結論(一般入試でいう80点台の)に「逃げてしまった」時、東大教授はおそらくガッカリするであろう。
80点の答案を書いたとき、受験生自身としては「よく書けた」という感情に浸れるかもしれないが、むしろ不足感や無力感を感じている受験生の方が「よく悩めている」という好印象を受ける。とりわけ文学部が含まれる人文科学は解釈学であり、一つの問題に多くの解釈が混在している世界観である。そうした学問に飛び込むセンスとは、何となく合意できる結論を鮮やかに導くことではなく、自分の脳みそ一つを使い、より深い考えを求めていく姿勢にこそ現れる。
もっともこの記事を読んでいる東大推薦入試の受験生諸君は、海外で異文化に触れる経験があったり、多くの本に触れたり、音楽を奏でたり、研究をしてきたり、自分の能力を研鑚してきた経験を有しているのだと思う。そして今もセンター試験の対策を進め、8割のボーダーラインを越えようと、あるいは推薦入試に不合格だった場合に一般入試で国立大学に合格しようと、より高いスコアを得るべく勉学に勤しんでいると思う。そうした豊富な経験を動員すれば、教授すら至れなかったより深い視点に到達できる可能性がある。というより「推薦入試の受験生だから」期待されている。
より深い思考に至る訓練を行う
さて「対策法」とは言っても、上のような性質の試験であると鑑みると、「高い点を取れる答案を書く訓練」を繰り返しているうちに本質を見失ってしまう可能性がある。試験自体が文章を記述する試験である以上「論理的に書く訓練」は行うべきであるが、それに伴って重要なのは「より深い思考に至る訓練」である。
まず「論理的に書く訓練」について述べていく。前提として残された時間が少ない現在においては過去問演習をすることも重要であろう。この時点で自分は論理的であり、文章を書く能力が高いと自負しているのであれば、時間を測って過去問演習をすること以外に特にする必要はない。その時間があるならばセンター対策を進めたほうが遥かに合格に近づく。
もしも長い文章を書くことに苦手意識を有しているのであれば、「自分の意見と他人の意見を区別する」ことを最低限意識しておけば良い。自分の意見を補強するときに、他人の意見を借りることがある。「Aが~と主張していた。しかしAの考えには反対である」とか、「私は~には賛成である。Bの調査で~というデータが示されていたからだ」など。そもそも他人の意見の借りごとをするのは悪いことではない。むしろ他人の意見を引用することによって自分の意見が補強される。とはいえ他人の意見やデータを、さぞ自分の意見のように語ったりすると簡単に見透かされる。きちんと峻別する習慣づけをしておくといい。これは面接対策でも有効だ。
「より深い思考に至る訓練」であるが、次のようなケースを考える。「高校球児を保護するために甲子園ではなくドーム型球場で全国大会を開催すべきか」のような二者択一の難題に直面した時、どのように振る舞うべきか。特に面白くないのは「分からない」と尻尾を巻いて逃げたり、「お互いのメリットデメリットを整理しあい合意できる場を創るべきだ」という抽象的な着地点、さらに「この二つのジレンマは考えが違うけど、色々な考えがあっていい」と相対主義的な結論である。特に相対主義を演じることは優等生なふりで心地よいことであるが、議論全体としては何も進展もしていない。悩み尽くして紛糾している方が遥かにオリジナリティがある。
例えば「幼い頃から甲子園で闘っている球児に憧れてきた高校生」の立場から考えたりとか、そのような「ドーム型球場でやるべきと考えている高校野球の実行委員会」の立場から考えたりとか。そこからもっと踏み込んで「甲子園というシンボルとは何か、別の会場でやることでどのようなシンボルが失われるのか」という議論まで展開できると、より"深く"なる。そこまで対立軸が分かりやすい問題は東大推薦入試の小論文で出題されないという声もあろう。しかし実は「こういうどっちつかずの対立軸」があるからこそ小論文の問題が成立するのである。
「対立軸」がない問題ならば、全員が共通した答えを導けてしまって、能力を適切に判断することはできない。一つ一つの問題に必ずといっていいほど、東大側からの「悩んで欲しい対立軸」が隠れていたりする(特に文学部の問題においては・教養学部は自分で対立軸を設定する必要のある問題もあったりする)。そうした対立軸を発見し徹底的に悩みこむ練習をしてみてほしい。
受験生の幸運を期待する。
以上
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