絵画の包囲空間とiPhoneのベゼル、ノッチ
の主観的な感覚の成り立ちに対するメカニズムの考察。
上記の内容を要約すると
ベゼルやノッチが視野に入っている状態ではハードウェアに対する感触はハードウェアのみに帰属し、内部で動くソフトウェアに対しては間接的な操作の印象がある
対して背景が#000 のようにベゼルやノッチが見えなくなると、ハードウェアへの感触がそのままソフトウェアにも適用された感覚になり、ハードウェア/ソフトウェアの閾が溶解する
この観点でiPhoneの外観モードは並列関係にあると言えるか
見たいなことを言っていた。
絵画の奥行きとのアナロジー
この感覚について、平面的な絵画の空間概念がアナロジーとして結びついた
をベースに記述する。
注:この論述を理解しきれてないので部分的に誤謬である可能性もありtndhjm.icon
この論文で提言されるのは
絵画は 2 次元平面上に表現されたものなのに,なぜ,そ こに 3 次元的な奥行きや空間をありありと想起することができるのか
という問いに対して
遮蔽縁が包囲空間の奥行きを創り出すという理論的な提案をおこなう
包囲空間を,自己の周りをとりまき,自己の運動に相対して,運動しつづける空間であると定義して,これ以降の議論を進めたいと思う.
包囲空間の定義からして,それは対象の後ろだけでなく前をも,すなわちその全体を取り囲んでいると捉えられなければならない.包囲空間を 包囲光で満たされた媒質的な空間として捉えるとき,図と地という二値的な方法で空間を表現しようとするのは,あまりに乱暴である
この芸術の二重性が包囲空間構築の前提になっていると考えられる.芸術作品には必ず表現の場の枠が定められている.例えば,ギブソンが言うように,観察者の視野はどの瞬間においても立体角の半球のほとんど を占めているため,絵画が観察者の視野全体を満たすことはあり得ず,絵画は絵画ではない何かによって常に囲まれている (Gibson, 1982c). したがって観賞者は,2 つの全く異なる視覚的経験をするといえる.絵画経験でいえば “我々は画像の面と画像の中の面とを区別する”ように (Gibson, 1979, 邦訳 p.299),作品それ自体の表面に刻まれた肌理を直接的に知覚することと, 作品の中で表現しようとしていることに間接的に気づくことの両方を同時に経験する.
つまり
絵画によって表象された空間と,絵画そのものを存在せしめる空間 (環境) とを,断絶して扱うのではなく,包囲空間という概念のもとで地続きとして扱うための方策
これらの話から思い出されるのは、ソフトウェア自体が、一種の実質空間であるという側面 バーチャリティを生み出す媒体としてのソフトウェアという視点を強調したい。つまり、 ソフトウェアのユーザがその中で認識し、行動し、経験し、反応する世界のことである
ソフトウェアの概念として浮かび上がるのが、包囲空間のそれ
ソフトウェアが、現状ハードウェアに内包されており、その意味で包囲空間を記述している
すでに述べた、主観の感覚ではベゼル、ノッチが見えない状況では包囲空間の扱いをしていると言える?
と言いつつ、ベゼル、ノッチが見えている状態では、僕はむしろインターフェースとそれを囲む肌理となるハードウェアを「断絶」していると述べてしまったtndhjm.icon
絵画は 2 次元平面上に表現されたものなのに,なぜ,そこに 3 次元的な奥行きや空間をありありと想起することができるのかという問いかけが,絵画をめぐるパラドクスとして語られてきた.
隠す面と隠れた面のレイアウ トの知覚が,奥行き知覚をもたらす
遮蔽縁の構造が,光学的な面性をもった奥行きを知覚さ せることがある
遮蔽縁の定義から言って、確かにソフトウェアに奥行きがある感覚、つまり前述の
ソフトウェアとは隔絶された上位層のレイヤリングである認識を持つ。この場合では、ベゼル、ノッチに囲まれた空間に対してガラス一枚を挟んで、間接的に、"働きかける"、”動作させる”といった感覚が働いている。
については間違った感覚ではないと思う。
となると問題は、ソフトウェアにおける「肌理」の扱いとして、問題はベゼル、ノッチによる遮蔽縁によってハードウェアの手触りが、インターフェースの肌理となるか、単に絵画を守る額縁、ガラスとなりうるかが揺らぐ?
ベゼル、ノッチによってハードウェアが額縁の職能を際立たせると、それはつまり画面の限定性を生む。
ムサビでやったような話だtndhjm.icon
例えば、何らかの絵画作品において、通常、描かれた画面と画面の縁と は内的な構造的連関を備えています。わかりやすい事例を挙げると、皆さんがテーブル上 の果実の絵をA4の紙やF10号のキャンヴァスに描くとします。その場合、描く対象をこの 与えられた空間の中に、この空間を限定する縁を意識しながら描いていくことになりま す。そして出来上がった作品に対して、与えられた紙やキャンヴァスの余白を切り取ってし まわれたとします。その場合、皆さんの描いた作品は別のものに変化してしまわないでし ょうか。仮にテーブル上の果実の描写の部分にこの切断が触れないとしても、同じ作品で はなくなってしまいます。それはどうしてでしょうか。作品を構成するものが、単に描か れた部分だけではなく、その描かれた部分を内包する空間の限定をも含んでいるからでは ないでしょうか。つまり、描く行為によって、画面は内在的に構造化されているということです。!
たしかに、描く出発点で与えられたA4という紙やF10号というキャンヴァスは市販の素材のもつ縁はこれから描く絵画に対して恣意的な関係しか備えていません。とはいえ、描くという行為は、この物理的な縁を、絵画的な縁へと変形し、絵画面の内部の構造と必然的な関係、つまり、「こうでなければならない」という関係を実現していくことに他なりません。
画面の物理的な限界がそもそもあれど、その内部の空間的な限定をより強固にするベゼル、ノッチはその内部空間の構造化によって窓からその世界を覗き込む的な感覚に近くなる。tndhjm.icon