著作権と認識のズレ
ニーアの件、非公式サーバーで立てて遊べるようにしてる問題で日本と各国の認識のズレが話題になってる。
あんまりちゃん追えてはないけど、範疇としてはエミュとModで海賊版ではない。ROM配るとどこの国でも違法だとは思う。
10年くらいMod文化で生息してた肌感としては海外企業って相対的に日本企業と比べてevilなこと多いので、規約や企業に服従するなみたいな感覚があるのは分かる。ディズニーみたいな力ある企業がロビイングで著作権保護期間延長されたりで法が歪められることがあるし、AdobeやAutodeskが競合買収してソフト廃止するなんて平気でやるわけで。あの手のMod文化がテクノリバタリアンとかハッカー文化に近いところあるので、限りなく自由であるべき、大企業の押し付けから解放されるべきみたいな反抗的な自由の精神性を持った人が多い。ルールは守るべきって思う大半の日本人には抑圧に対するカウンターカルチャー、スクワッティングとか海賊ラジオとかも同様にわからないだろう。同人や引用なしの漫画切り抜き投稿しつつこれらを批判するのは二重基準であまり褒められたもんじゃない。
フェアユースの規定をもってしてもWayback Machineの存在が適法かはだいぶあやしいけど、不都合なことあればブログ全消しする総理大臣もいるわけで、web魚拓あってよかったなってついこの間思ったばかりだ。
きちんと記録として保管してないとなかったことになるか歴史修正主義になる。権力者に都合よすぎることになってしまう。インターネットコンテンツの保存の話で言えば、善し悪しはおいといて海賊行為または権利的に怪しい保存がコンテンツを延命させてるのは事実だと思う。
大英博物館が植民地時代の盗品だらけでその行為は(植民地支配含め)正当化されるものではないけれど、事実として保管技術によって消失を免れたものも多々ある。そんなことを考古学好きな高校の友達と議論したのを思い出す。
日本人が横並びから外れたときに誹りを受ける恐れに強く支配されていて、他人が得しているのをずるいと思うから横並びを強要してくる社会である。日本での公(おおやけ, Public)がお上を意味し、Publicが主体的な個人が自由に開放されているという感覚がない。法と道徳と感情の切り分けができない。
日本人がクリエイターに対して神聖視しすぎな気もしている。一神教ではThe Creatorとは創造主のみを指すので、世界も人も創造主の産物であるなら、作品も創造主の産物になる。作品と作家の一体を絶対視しないので、優れた作品は神(あるいは人類)の宝なのだから残すべきとなる。ヴァイキングとかそうだけど、キリスト教が布教するようになって書物が残るようになった事例もある。そもそも知財・知識は秘匿・独占すべきではない、広く利用されるべきという思想が前提にある気がする。
日本に限らずだけど著作権法がインターネット時代にあってるとは思えないし、成り立ちから考えれば著作者の利益損ねない範囲なら原則自由でもよいとは思ってる。(著作者への還元は別の話)
日本人にはルールや世間体に隷属して戦前の急進的な翼賛体制招いたメンタリティを反省せえよ、権力にはちゃんと抗え、ユーザーとしての権利をもっと主張してもいいという気持ちと、海外の人の「君たちには価値がわからないから我々が管理する」みたいな植民地主義丸出しもみんなのためという理由ならなんでも許されると思う軽率さもやめーやの気持ちがある。
欧米人の高慢さと日本人の変なメンタリティ、映画の『沈黙』(マーティン・スコセッシ監督、遠藤周作原作)見たらいいと思う。