Relaxed Agile
最近、アジャイルは「XXXしなければアジャイルじゃない」というのが多いという話しを聞いたので、もっとリラックして少しづつ自分たちのペースでアジリティを高められるスキームがあってもいいのではないかとふと思ったのでつらつらかいてみた。
アジャイルとは、「環境に適応しながら、ビジョンに向かって成長していくシステムの有機的なプロセスと前提となる価値観の集合体」と捉える
アジャイル開発より抽象度高く、スクラムほど領域特化ではない。
ゆえに、どんな領域でも当てはまる
今の状況と、自分たちの願いから、いまするべきことは生まれる、と考える
外部から「XXXすべき」というのはあくまでもアイデア・仮説である。
何をしなければならない、はない
仮説なので「XXXすべき」ではなく「XXXしたら〜〜〜になるはず」という形になる
どこにも当てはまる真実ではない。ゆえに「アジャイルである」の条件にはならないのでは?と考える
常にコンテキストから始まり、コンテキストと不可分である。
唯一外せないのは「アダプティブに対応しているか?」だけにする
どの頻度で適応しているかは、度合いの問題
ただし、小さくできるほうがよりよい、が、大きいからと行って否定するのはナンセンス
今の状況の認知・知覚が十分出ない場合はありうる
しかし「その場にいる人々」がその時々の能力を最大限発揮して手抜きせずにできることをやっていると考える
常に最善を尽くしていると考える
人は不安・恐れからはパワーが生まれない、と考える
不安を回避しようとする行動は、力を生み出さない
「〜しなければならない」は不安や恐れから駆動される
自分の意志が力を生み出す
「〜したい」という意志が力を生み出す
「理想は向かう方向であって、現実がダメなことをジャッジするモノサシではない」と考える
完璧主義者の呪いから解放される
「リラックスしている」ことで、自分たちが持つポテンシャルを最大限に発揮できると考える
ワールドカフェが「創造性はカフェのリラックスした空間が一番よい」としたのと同じ 弛緩と緊張は表裏一体
しなければならないは緊張
リラックスは弛緩
リラックスしっぱなしというわけではない
筋肉は使う(緊張)前に十分弛緩してないといけない、という話
「〜しなければならない」という言葉が出たら「だって〜だから」とその理由を考えずに感じて口にしてみる
根っこに恐れや不安が奥にあるのでないか?
「価値を出さなければならない」→「だって〜お金をもらっているから」
個人の生存本能の集合体として、集団の生存本能(=恐怖)の構造があるという仮説
「〜しなければならない」がでたら、「〜することを選ぶ」としてみる
選んだ理由が何か?恐れから来てる?
「〜しなければならない」は選択肢が狭まる
「〜したい」は自由に選択できる
恐れを手放すことで、「〜しなければならない」から解放される
「すべては体験であり、快も不快もあっていい」とする
すべての体験は必然であり、そこから学びを得ればいい。
失敗を恐れるということがない。
緊張をなくすのではなく、弛緩とともにあるといこと
どちらかだけ、ではない。
緊張もあっていい、弛緩もあっていい
「スプリント」の繰り返しには弛緩がない、常に緊張しっぱなしのイメージ
多分、今のアジャイルは「価値を出す」「成長する」ということに囚われ駆り立てられているのではないか?
リラックスな〜というよりも、「リラックスからはじまる〜」といったほうがいいかも。
「リラックスからはじめるアジャイル」
こういうこと言ってたら、もうアジャイルって言葉からはなれているのかも。