哲学書を粗読・乱読する
哲学書を「60%の理解も求めず、材料集め感覚で」粗読かつ乱読するのもありだなと思った次第 結果的にそのほうが理解も深まる気もしている
「ただその問に対して考えを深めたい」という思いで書を手にとることもよくある気がする
「理解したい」というよりは「問がほしい」だけ
「適当に哲学書を買って数行読んで寝かす」みたいな雑な読み方もしていいと思う
下手に理解した気にならない分、謙虚でもいられそう
哲学書は数学書と同様に、「最初のページからじっくり読み進めなければならない」イメージがついている 「著者の主張を極力正しく理解したい」のであれば、そうなのかもしれない
たしかに、じっくり・何度も・たくさん吟味読まなければ、あれこれ考え抜いた著者の主張を汲み取るのは難しい
しかし、本当に著者の主張を著者の考えた通りに理解しようと努めるなら、その本を読み込むだけでは足りない
時代背景や執筆に至った経緯、著者の生い立ちなども捉えにいく必要がある
つまり、大量の情報をもとにその著書を相対化できてはじめて、その本を理解できたと言える
ここが数学書とは異なる
少なくとも数十冊、その時代の歴史や思想に触れてない状態で一冊を精読しても理解度は上がらない
もちろん、精読に意味がないとは言わないが、目的が異なる
「あの人はこう言ってた」と、あたかも正しく解釈しているかのように言いふらしてしまうと誤解が広まる
これはどういう問題を生むのか
明らかに間違った情報は、相手に不利益を与えそう
誤解は、意図しないその方向性によって不利益につながる
その著者のことを知らないのであれば、誤解されて伝わったところでその半分は聞き手の問題でもある
二次情報を無根拠に信じるのと、聞いた話程度に押さえておくのは違う
とはいえ聞き手がすべて自分で検証するのは不可能だし、誤解を生んで得することは少ない