ウィトゲンシュタイン・文法・神
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ウィトゲンシュタイン・文法・神
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ウィトゲンシュタインの「文法」概念を宗教研究に応用し、自然主義・相対主義・還元主義をのりこえる視点を提供する宗教哲学の好著。 https://gyazo.com/e22fc703bda4bb9820ea5e590651430e
この本は分析哲学の視点に立った神学や宗教哲学と称されている
この本では「宗教」において、キリスト教のみを対象とする キリスト教という言語ゲームとこれ以外の言語ゲームとの<通約可能性><対話の可能性>を保持しながらも、宗教言語の独自性を温存する
1. 宗教言語を語ることは、信念・感謝・願望・意思・態度などを表現するという「自己が関与(コミットする)する行為」
2. 神に対する信者の「コミットメントの表明」
つまり、宗教言語は神へのコミットメントを前提にして成立するものであり、非信者には無意味
訳者前書き
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草稿1918-1926
生の意義、すなわち世界の意義を我々は神と称することができる── 祈りとは、世界の意義についての思索である。世界の出来事を私の意思によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である
神を信じるとは、生の意義に関する問いを理解することである。神を信じるとは、生が意義を持つことを見てとることである
ii
宗教は言葉で表現しうるものではない。実践もしくは実際の生き方が宗教に意義を与える
v
「我々が原始人とみなしている人々が神託を仰ぎ、それに従って行動するのは誤りだろうか。これを『誤り』と呼ぶ時、我々は自分たちの言語ゲームを攻撃しているのではないか」
真理・事実・有意味・証拠・根拠・現実・合理性などとみなされるものは、このような言葉が使用される言語的枠組み(もしくは準拠枠)としての言語ゲームによって独自に決定されることになる。
「神は存在するか」という問題を例に取れば、キリスト教という言語ゲームの内部では、論じるまでもなく、これは「真理」であり、「事実」であり、「有意味」であり、これを支持する「証拠」も存在する。しかしながら、無神論的言語ゲームにおいては、これは「真理」でもなく、「事実」でもなく、「有意味」でもない。これを支持する「証拠」はなく、反対にこれを否定する「反証」があることになる。 1. 他のものとは異質な言語ゲームは、それ独自の論理構造や体系を有している。それはあるがままで秩序だっており、おのおのが真理・事実・有意味・証拠・証明・現実・合理性などをめぐって独自の基準や規範を内蔵している
2. それゆえ、および生活形式は、外部からの批判を逃れている
3. キリスト教は独自の閉じた体系をなす言語ゲームであり、非キリスト教的言語ゲームからの批判や攻撃は妥当しない
6
「ある意味において、「ある意味において、すべての神学者は哲学者でなければならない」と述べた。 さらに言うならば、ウィトゲンシュタインの哲学は、哲学者の「精神的痙攣」と同じく、神学者の「精神的痙攣」を軽減する助けとなるであろう。 (ウィトゲンシュタインを「神」の文脈から読むことは)“文法の性質”についての理解を深めることと解釈できるtkgshn.icon
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この本の要点は倫理的なものです。私はかつて、今の序文に実際に入れなかった一文を入れようと思ったことがあります。それをあなたのためにここで書き出してみましょう。というのも、それは、おそらくあなたにとって、本書を理解するための鍵となるでしょうから。その時私が書くつもりでいたのは、次のことです。すなわち「私の著作は二つの部分、つまり、ここで述べていることと、書かなかったすべてのこと、から成る。そして、重要なのはまさにこの第二の部分である」
S・トゥールミン他「ウィトゲンシュタインのウィーン」
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言語の本質と命題の機能についてのウィトゲンシュタインの議論は、我々はいかにして厳密で有意味な言明を作り上げることができるのか、を説明する。しかし、それは、この言語の機能それ自体の精確な説明をもたらしはしない。
全体として「論理的哲学論考」はこの目的を達成しようとしたが、できなかった。 論理的哲学論考においては、言語と世界の関係は、それ自体語り得ないのである。命題が述べることはそれ自体に跳ね返ってきて無意味となるのである。 21
21歳の頃宗教に対するその態度がどう変わったかを、話したときのことを回想している。
「ウィーンでウィトゲンシュタインは芝居をみた。芝居はそのものはありきたりのものだったが、その中の登場人物の一人が『この世に何が起ころうと、自分は困らない』という考えを述べるところがあった。つまり、この人物は運命や環境に対して颯然として自立している。ウィトゲンシュタインはこのストイックな考え方に感銘して、このときはじめて宗教の可能性ということを悟った」(「思い出」)。 「世界がいかにあるか」(「論考」)に関心を持たない宗教的態度が、『論考』の神秘的なものについての原名と関係しているのは、明白である。 ウィトゲンシュタインは「世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるというその事実が神秘なのだ」(「論考」)と述べている
「私にとって事実は重要ではない。しかし、人が『世界が存在する』というときに意味しているものには、親近感を覚える」と。世界についての宗教的な驚きと、「運命や環境」に自分を依存させない宗教的な方法とは、『論考』における「神秘的なもの」と──必ずしも同一視できないとしても──非常に近い関係にある。
5 何者にも依存しない神の存在
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フィリップスは「あらゆる宗教的信念を喪失した人々は、彼らが事実であるものを無視しているという点で間違っているものだろうか」と問うている。 誰も神の存在を容認しなくなった時のことについて語るのは、矛盾だとは考えていない
今や宗教を信じるものたちは、信仰が完全に欠如する時のことについて、その像の内部から、何事かを問うことができる。彼らが述べることは「神は死んだ」ということではない。そうではなく、「そのような時人々は神に背を向けている」ということである
あらゆる信仰が全く欠如している時、神は人が持っている宗教的像において何らの役割も果たさないだろう。従って、フィリップスにとって、現在、すなわち宗教的像を持った信者がいる時のこと、について語ることのみが意味をなす。それゆえ、未来において信仰が喪失するという仮説的な場合ですらも、フィリップスは何ものにも依存しない神の存在について語ろうとする試みを決然として否定する。彼は次のような意味でのみ、何者に依存しない実在について語る用意がある。
こうした脈絡で、瞑想、専心、禁欲的自制によって赦すこと、感謝すること、愛することなどが意味することを学ぶことで、信者は神の実在との関係を保っている。これが我々が神の実在という言葉で意味するものである。 なるほどtkgshn.icon*18
この実在はいかなる信者からも独立している。しかし、この独立性は信者一人一人の生活しから独立しているのではない。神の実在は、信者の生活がそれに照らし合わせて評価されるという意味で信者から独立しているのである。
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(たとえば『祈り』)、これは、文字通りの意味でまた形而上学的意味である行為を遂行している行為者を支持すると考えてはならない。「与えるもの」というのは宗教における語り方であり、これが指示作用を持つと考えなければ、反対できないものである。神は信仰を持つ人々がその使い方を学んだ言語において、確かに見出されうる。つまり、我々は彼らが使用する言語において、神について語ることの意味を見出すのである。しかし、彼らは自分たち自身の言語ゲームの外では何者をも支持していない。──この世界のうちには存在しない価値について語る、という意味でのものを別とすれば。 もちろん、フィリップスは以上のことに付け加えて、「礼拝というコンテクストで神がいかに理解されているのかを考慮しなければならない」と言うだろう。この節で論点となっている問題を、具体的な例を用いて追求してみたい。
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アルベール・カミュはイメージというものを簡潔であるが鮮やかに説明した。この説明は、おそらく無神論的ヒューマニストの生活の枠組みとなるであろう。それは『シーシュポスの神話』である。カミュは「不条理の英雄」シーシュポスを描写している。「神々のプロレタリア」であるシーシュポスは、巨大な岩を険しい斜面で果てしなく押し上げるという宿命を負わされている。「すると、シーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下の法の世界へと転がり落ちてゆくのをじっと見つめる。その下の方の世界から、再び岩を頂上まで押し上げて引かなければならぬのだ。彼は再び平原へと降りていく」(「シーシュポスの神話」) シーシュポスが山の頂上にまで石を押し上げることをやめ、この話が悲劇となるのは、彼が息つくからである。
──自分が山頂を離れ、神々の洞穴の方へと少しずつ降ってゆくこの時のどの瞬間においても、彼は自分の運命より勝っている。彼は、自分を苦しめるあの岩よりも強いのだ。
──シーシュポスは──自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。まさにこの悲惨な在り方を、彼は下山のあいだじゅう考えているのだ。彼を苦しめたに違いない明瞭な視力が、同時に、彼の勝利を完璧なものたらしめる。侮辱によって乗り越えられぬ運命はないのである.