あらためて奇人伝説について
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あらためて奇人伝説について
熟した街には必ずだれもが知る奇人がいる。京都なら、蓮華谷の三奇人だとか、吉田の三奇人だとか、下鴨の、そして古門前の三奇人なとか、至る所に奇人伝説があって、数えても両手でも足りないほどだ。 奇人の条件は、効用とか意義といった「合理」とは無縁の行動をとるということ。損とわかっている事ばかりしたり、意味のないことに全財産を注ぎ込んだり、なんの得にもならないことで身の上をつぶしたり…というふうに、人生の習いからかくじつにはずれているけれどか、人生、確実に一本筋が通っているという恩仁のことである。
売り言葉には必ずそれを買う、損をするとわかっていても意地を張り通す、義に身を捧げる、誰かに惚れ込む、美しいものに惹かれる、時には放浪や極道をまっとうする…。身を滅ぼすことも厭わずとことんを貫く。「あほやな」と呆れながらも、かれらを、変人を超えて奇人であると人が納得するのは、その人たちが通す筋にどこか憧れているからだろう。この筋を、行けるところまでとことん辿っていったらどういうことになるのかを、その人たちが見える形で示してくれるからだろう。
言ってみればそれは、並の人生に向けられる〈外〉からの視線である。人生をしっかり棒に振ることで、逆に市井のひとたちに、お前たちが後世大事に守っている人生などほんとうに棒に振るに値するほどのものなのか、と問いただしているのである。奇人とは、変人と違って、あっちにまでいってしまったひとたちなのでたる。
奇人のいる街は住みやすい。これ以上いったらほんとうに終わり、という人生のリミットが眼に見えるかたちで示されているからだ。人生の里程標が明確に刻印されている街とでも言おうか。逆の言い方をすれば、そのリミットのうちなら何をしでかしてもどうにかなるという保証とも言えぬ保証があるからだ。こういう意味で、奇人のいる街は自由である。
それはまた成熟のしるしでもある。異物を異物として遠ざけながらも、その存在を許す懐の深さがあるからだ。それを危ぶむより、ひょっとしていつの日か街が行き詰まってにっちもさっちもいかなくなったときにその存在が世直しのきっかけとなるかもしれないという、あんまり当てにならない予感をそれでも持ち続ける余裕があるからだ。
そんな成熟が外からも見えたからだろういまから二十年、三十年くらいまでは、行き先のない全国の奇人がどんどんこの街に流れ込んできた。ドロップアウトした奇矯ないでたちの若者たちが続々集結してきた。前衛芸術家がわけのわからぬパフォーマンスをしたり、前衛建築家がけったいなアーキテクチュアを、古い佇まいを押しのけるようにしてにょきにょき立ち上げた。そしてそれを面白がる風狂な御仁が街の中にまだたくさんいた。
見て見ぬふりをする。遠ざけながらもその存在を許容する。これこそ成熟した都市が育んだ寛容の精神である。そんなモダンな都市でこそ奇人伝説は生きながらえる。ノイズこそ活力の源だと、そんな無意識の計算ができることが、モダンな都市住民の条件なのかもしれない。