「遺伝子として生きるか、ミームとして生きるか」の感想
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遺伝子として生きるか、ミームとして生きるか|フロクロ|note
食事(≒ 労働)
生殖
教養
遊び(「労働」の反対)
反遺伝的欲動を追求することは言語世界での活動を推し進めることでもあるため、そこは論理の世界でありときに直観から離れた結論を導く。
また、反遺伝的欲動の追求は遺伝子のプライオリティを下げる(つまり自己を中心として同心円状に広がる自己保存の境界を拡張していく)ことでもあるため、命の価値を等価に扱う範囲を拡大する方向に進みやすい。
ただし、当然だが生きていく上で純粋な反遺伝的欲動に従って生きることは不可能である。なぜならば生きることそれ自体が遺伝的欲動によって動機づけられているためだ。
純粋な反遺伝的欲動に従って生きるということは、自己保存を諦め情報として死ぬことを意味する。
遺伝的欲動が子供を残そうと動いているとするならば、反遺伝的欲動は何を残そうとするだろうか。それはおそらく「ミーム(meme)」であると考えられる 遺伝的欲動と反遺伝的欲動が必ずしも排反ではないことが伺える。両者と協調しながら、よりよい生、及びよりよい死について考え続けることそれ自体も、よい生と死のための要件と言えるかもしれない。
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もっとわかりやすそうなツイートを本人のものより集めてみた
創作を頑張りまくると死に直結するのはいわば必然で、なぜかといえばミームに殉じることは遺伝子の命令に背くことと紙一重であるからです。遺伝子の動機と美的な動機は独立して動いているが、それを遂行する身体はひとつしかない。https://t.co/hjsGbaJE7i