最も些細な事柄が、最も重要であり得る:濱口竜介、映画『急に具合が悪くなる』1万字インタビュー|ヒルズライフ HILLS LIFE
映画制作、俳優、アルツハイマー、ユマニチュード、人のモノ化への問いのつながりとても納得いく
たとえば非常に大変なアクションシーンがある場合などは、多くの現場では皆で「安全性に気をつけつつ、きちんと準備しましょう」という合意を形成しやすい。時間もそれなりにかけられるでしょう。しかし……。そもそもの話としてお尋ねしますが、俳優が自分の感情をつかって仕事をするということ、感情を表現するというその仕事の内実について、想像することなんてできますか?
「俳優個人の仕事」として外部化して終わってしまう。ただ、もし自分がやると考えれば、それが想像を絶するほど大変な仕事であることは明らかに思えます。<snip>俳優たちは互いにどんな演技をするのかも、その場の手探りであることがほとんどです。違和感を覚えて、それを止める俳優は無能やワガママとも見做されるでしょう。俳優が感情的な準備に要する時間や、アンサンブルをつくっていく時間が、前提とされていない。そのため予算は低く見積もられ、スケジュールは切り詰められていく。そして、まるで最終的な商品の納期に間に合わせるための部品を発注するかのように、俳優に演技が求められている状況がある。
私が感銘を受けたユマニチュードの核心的な考えは、「介護をする人たちが他者をより大切に扱うことによって、自分自身を傷つけないで済む」ということでした。他者をモノのように扱うとき、人は心のどこかで、本当に求められるべき行いはこういうものではないのではないかと感じている。それでもなお構造に呑み込まれながら他者をないがしろにするとき、その人自身の尊厳もまた大いに傷ついている、という認識がユマニチュードの哲学のなかにはあります。
何が「生きづらい」かといえば、私たちはだいたいの時間、仕事をしていたり、単純にプライベートとはいえないような人間関係のなかで生きていたりするわけですよね。いや、プライベートでも同様なのかもしれませんが、そうした関係性のなかでは、役割が固定されています。<snip>社会全体が効率を、優先順位の上位に置くように迫ってくる。その結果として、われわれは人を役割でしか扱わなくなる。「あなたはこの役割を果たしてくださいね、私はこれをやりますんで」と、ユニットやネットワークの一部としてしか人を扱わなくなり、他の部分は見ないということがある。それは自分自身に対してさえも同様です。むしろ、私たちがモノのように扱ってしまっているのが、何より自分自身である可能性があります。
われわれが他人と関係性を築く力が、社会構造そのものによって毀損されている。われわれはこの社会構造に、日々、人間をアビューズ abuseするように迫られている。人間を人間として扱わないこと。他者をモノのように扱うことを通じて、高い生産性を達成しろと常に迫られている。だとすれば、その状態を脱するわずかな可能性は「今日は人をモノのように扱わなかった」「今日はあの人に、人間として接することができたような気がする」という日を、一日ずつ重ねていくことのなかにしかない。