日本のメリトクラシー(≒学歴社会)研究史を読んだ
10分でわかる日本のメリトクラシー(≒学歴社会)研究史 - 清く正しく小賢しく
メリトクラシーとは
能力を基準にして選抜を行う仕組みのことである。実際には、教育における競争によって選抜を行う、という形をとる。
日本のメリトクラシーは、「みんなが競争に参加する」という特徴を持っていたが、そこには欺瞞が潜んでいた。しかし次第に、「競争が上と下に分かれる」、「競争の基準が多様化する」という現象が起こり、日本のメリトクラシーは変容していった。
日本では大衆が競争に参加している。が
1. 何を動機づけにしていたか謎
2. 機会が不平等であるにも関わらず学歴の不平等ばかり語られてきた謎
日本における受験戦争では小刻みの偏差値による学校の序列化が特徴
トーナメント幻想により脱落が人生の負けを意味し、また学歴社会批判を焚き付けてきた
日本のメリトクラシーは、エリートのみならず、大衆や非エリートをも競争に巻き込んでいる、言い換えれば大衆レベルで競争が繰り広げられているところに特徴がある。これはよく言えば、メリトクラシーが国民全体を包摂している、ということでもあり、教育格差や社会的排除が叫ばれる昨今からすると幸福な時代にすら見える。しかしそこにはある盲点があった
日本のメリトクラシーの謎は
1. 大衆が競争に参加していること
2. 機会の不平等が顕在化しないこと
2 について、諸外国では語られることが多いのに、日本では語られないのは戦後の平等観にあるのではないか
= 生徒が「差別感」を抱かない教育を理想とする、戦後日本型平等観
学歴社会批判とは学歴取得後の不平等・不満
このとき機会の不平等が隠蔽されてしまっているのではないか
戦後日本型平等観
実態としての平等、機会の不平等を是正するのではなく、処遇の平等を敷いてきた
つまり学力別クラスというくくり方で能力差で違った扱いが差別感を生むのでやめる
tkdn.icon 一億総中流、国民全員が平等に、みたいな感覚に近い
階層格差、機会不平等に触れること自体、生徒に差別感を抱かせるとして、機会不平等について語ることをタブーにしてきた
tkdn.icon この辺、事実として明らかになのにクソみたいだなー
特定の階層文化をもたず、学歴エリートが独自のエリート文化を持たない、手続きが平等、エリートが大衆化、などで日本独自の公正なメリトクラシーが担保されていった
日本のメリトクラシーは、大衆が競争に参加するという、見ようによっては幸福なものであったが、一方で機会不平等が覆い隠されてきた
しかし90年代に入ると、一見平等に見える(一億総中流幻想)という前提すら崩れ、むき出しの格差が現れ始めた
tkdn.icon やっぱり
「ゆとり教育」=1998年改訂の学習指導要領(とそれに付随する教育改革)
ゆとり教育の発端、学歴社会・受験戦争で子どもたちは勉強をし過ぎている・学習負担が増えているという発想
日本のメリトクラシーは公正()なので努力次第で誰でもトーナメントを勝ち残れるという幻想がそうさせていた
親の促しの多寡あるいは学習習慣の有無が影響することで、階層によって努力の量には差が生じている。そして、特に階層下位の生徒の努力量が減少している、すなわち努力の階層差が拡大している
階層下位の生徒たちは、競争から降りることで「自分自身にいい感じをもつ」ようになってきていた
努力と自己有能感は関連することがなくなり、別の手段で自己有能感を示すようになってきている
(階層下位の生徒たちが競争から降りること自体さえも)
ゆとり教育の発端がそもそもミスってる
結果的にゆとり教育は競争(外的動機付け)への否定を広め競争を更に弱めた
⇢ 受験圧力が弱まった
⇢ 意欲の衰退が広まった
ここに環境差が生まれ始めた
上位層は外的にも内的にも動機付けされる環境があり意欲が維持できたが、下位層は競争から降りること自体が自己有能感を満たしてしまい、より努力と意欲の格差を拡大させてきたのではないか
メリトクラシーの弱化、偏在化という帰着に対して新しいメリトクラシーが出現してきているのでは説
ゆとり教育の発端は、学習負担過大ともうひとつは、「新しい能力」論
先行き不透明な時代にあって、今までのような詰め込み教育、暗記教育では培えない、主体性や思考力、自ら考える力が重要になってくる、教育はそういった力を育てる方向にシフトすべきだ、という議論
tkdn.icon メモ
77年改訂学習指導要領(≒「(広義の)ゆとり教育」)が「学習負担過大」論の源流とするなら、臨教審とそれを受けた89年改訂学習指導要領が「新しい能力」論の源流
新しい能力の獲得のためのメリトクラシー = ハイパーメリトクラシー
新しい能力とは、意欲や主体性、コミュニケーション能力や対人能力など
本田の研究は、「新しい能力」が、その子どもの家族関係のあり方(コミュニケーションの密度は高いか、関係は良好か、期待されているか)に強く影響されている、と指摘する。
つまり状況としては機会の不平等
単なる所得や階層の差となって現れるわけではなく、コミュニケーションの多寡といった質的な差として現れる
新しい能力は基準が曖昧で全人格が評価対象となる、従来のメリトクラシーよりも過酷ではないか
現状は既存のメリトクラシーと新しいハイパーメリトクラシーの二重苦なのではないか
親から子から受け継がれるのは学歴である
機会の不平等による階層格差、学歴媒介モデル
否
「学歴伏流モデル」(学歴が親から子へ受け継がれ=伏流、それが表面上は階層の再生産として現れる)
ではないかという話
学歴伏流モデルが正しければ
1. なぜ学歴が親から子へ受け継がれるのか
人々が望んでいるのは、「親より高い学歴へ上昇すること」よりも、「親より低い学歴に下降しない」こと
上昇移動は必ずしも望まれないが、下降回避は強く望まれる
高度経済成長や社会変容で子どもが必ずしも親より学歴が高いという状況は起こりにくくなっている
そのまま親の学歴をそのまま継承するようなモデルになっている
2. なぜ学歴格差によって階層格差が生み出されるのか
日本のメリトクラシーは強固
学歴と職業、到達階層は、今日においてもなお強い結びつきを持ち続けている
なお雇用流動化が進んでもメリトクラシーが強固であるため高卒層の世代内階層上昇がさらに難しくなる
日本のメリトクラシーに関しては手続き平等が求められてきた
メリトクラシーの再帰性
能力をテストによってのみ測定することができるのかという問いと解の繰り返し
競争=学力試験とは異なる選抜制度として、推薦入試が登場したのもその反動として
日本のメリトクラシーは、「みんなが競争に参加する」という特徴を持っていた(→竹内『日本のメリトクラシー』)が、そこには欺瞞が潜んでいた(→苅谷『大衆教育社会のゆくえ』)。しかし次第に、「競争が上と下に分かれる」(→苅谷『階層化日本と教育危機』、吉川『学歴と格差・不平等』、中村『大衆化とメリトクラシー』)、「競争の基準が多様化する」(→本田『多元化する「能力」と日本社会』、中村『大衆化とメリトクラシー』)という現象が起こり、日本のメリトクラシーは変容していった
tkdn.icon まとめにある他の観点ももちろん盛り込まないと検討の余地が多くありそう
外的要因の深堀り
教育大衆化
メリトクラシーは近代社会の基盤部分にガッチリと組み込まれた選抜のシステムである
ので手放すことはできない
「機会平等な社会へ」という言葉は、「みんなで幸せになろうよ」(©パトレイバー)という共存共栄の合言葉とセットで用いるべきだ。