知的生産とエモさは相性がよくないのか?
なんとなく自分の中で、知的生産とエモさというのは相性がよくないイメージがあって、最近は自分のエモさが薄まってる気がする。これはなんの思い込みだろうなー。
こんなツイートをした。
rashita.iconエモさ、とは何か、をまず固めておきたいところ。
論文は、事実と意見を分けることが大切
意見は、基本的には感情的なものではない。ロジカルなもの。
論文においては、感情的な要素は基本的には不要
しかし、論文執筆だけが知的生産活動のすべてではない。
エッセイでも、小説でも、映画作りでも、知的生産
そういう行為にエモさは不要か。
あるいは、不要というとき、そこで含意されている「エモさ」とは何か
何かしらのメッセージを熱く語るとき、それは「エモさ」なのかどうか。
エモさであるとしたら、拒否したいエモさとそうでないエモさがあるのかどうか。
エモさでないとしたら、そこで意味される「エモさ」とは何か。
やはりKoh_Sayato.iconは知的生産の「知的」という言葉によって、論文執筆のようなものを真っ先にイメージしてしまい、それにとらわれがちらしい。
手にした情報と向き合って、思考を巡らせ、新たなものを生み出すのが知的生産と認識しているが「思考を巡らせ」に何か思い込みがありそう。
衝動的だったり、感情の赴くままに何かを生み出したとしても、それは知的生産と呼べるものなのだろう。ただ「知的」という言葉からは遠ざかる印象があるな。
生み出す過程、生み出されたものが極めて情緒的であったとしても、それは知的生産である。
そして、知的生産とそれをとりまく行為を好むだけで、それを研究対象として生きているわけではないKoh_Sayato.iconにとっては、それが知的生産であるか否かが重要ではない。
考えることを楽しむのはいいけど、悩みに発展させて手を止めるのはよくないな。