暇だから動画を見るのか、動画を見るから重要なことに動機が向かなくなるのか
ikkitime.iconタイトルでほぼ言いきっちゃってるような内容ですが。
子供を見つつ、我が身も省みつつ。
ゲームでもSNSでも、その人に適した媒体で置き換えて読む。
あるいは、「人を無理やり禅的な環境に閉じ込めたなら、(その他律的な経緯のなかで)能動的な思索が少しは生まれるのか?」。
まあちょっと、今の時代は、レコメンドや釣りタイトルの問題を脇に置いたとしても、あまりに潤沢に安価なコンテンツがありすぎて、暇をすることが難しいという問題もあります。
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暇は作り出さなくては、暇できないという感覚ありますね。そして、周りのスピード感からか暇をすることが難しくも感じています。
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今の子供は、わりと「暇があって、それを埋める手段が複数あるなら、そのなかで最も快刺激の強いものでその時間を埋めようとする」傾向があって、それを放置していいものかなあ、ということを思います。
「それでは思考力や創造力が育つ契機を持てないぞ」
みたいな。
私の場合は、育ちつきなのか、時代性なのか、中学生・高校生のころに、「私は、遊ぶ時間とは別に、ぼーっとする時間も必要で、それがちゃんとないと駄目だから」みたいなことを言葉で考えていた記憶があるので、「うーん、人次第なのかな、時代は関係ないのかな、任せておいても、いいのかな」
なんて迷いが生まれます。
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学生時代は暇な時間を減らすことばかり考えていたかも。特に大学時代は寝るまま惜しんで何か取り憑かれたように何かしていたし、人が周りに常にいる環境を作っていた。
何か楽しいことが起きているんじゃないかと不安でいっぱいだった感じ。
身の回りのことを何でも知っていたかったのかなぁ。(強欲か…)
小学生や中学や高校時代は、比較的勉強ばかりしてた。運動音痴だと思い込んでいたし、音痴だしで。知識だけが裏切らず奪われず拡がる感じがあったから。そしてアハ体験もあったからかな。(暗記は苦手だった…それでいて写真のように覚えてたりするからわけわからんが)ひらめきに頼らがちだったのは今思うと残念な思考回路だったなぁ。
ikkitime.iconあー、大学生…。そうだったかも。大学受験から睡眠時間を削り始めて、大学生は徹夜もそれなりにしてたかも。なんか、そういうのが「格好いい」意識がありました。
ikkitime.icon勉強はあまりできなかったな、というかうまくできなかったな(苦笑) 反復練習を一番ばかにしていた時期だったので。本を読んで知識を増やすのは好きだったんだけどね。