悪趣味の時代、心の時代
90年代。
バブルは崩壊していたとは言え、その残り香みたいなものはまだ十分にあって、ヒットチャートの記憶とか、テレビドラマの記憶とか、そういうものを起点に主観的な記憶を辿ると、「まだまだ元気のあった時代」として思い出される時代。
ソ連もドイツの壁も崩壊済みだったしね。
もちろん、時代をひとことで語るのはもともと無理なので、破綻したら山一證券の社員さんだったら、そんなこと考えてもいられない。
その90年代について2つほど思い出したことをメモする。
一つは悪趣味の時代ということ。小山田圭吾の話題から芋づる式に手繰り寄せられた記憶。
確かに、『完全自殺マニュアル』が1993、『磯野家の謎』が1992年で、みんな何やってたの、という気分になる一側面がある。
もう一つが、心の時代。『心はどこへ消えた』の序文で少し記述されていたけど、その時期に、みんなが自分の内面を見つめるような動きがあった。 『聖なる予言』が1994年、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』が1996年だった。
『新世紀エヴァンゲリオン』が1995スタート。
そこに無理やり補助線を引くならば、高度成長時代からオイルショックを挟んでバブルがあって、その崩壊で大きな物語や物質主義が終わり、みんなが個別の物語に目を向けようという心理が働いていたというところだろうか?
そういう点で見ると、今の感覚と近いのかもしれない。
もちろん、その後勃興した「物語」が、冷戦やバブルほどに大きかったかと言われればそんなことはなく、「その後、《心の時代》が終わってから、ずっと心への関心はほとんどはなかった」という見立てもまた成り立つだろうけど。
この間に盛り上がって消えた「物語」といえば、小泉景気、物言う株主、政権交代、ビジネス書ブーム、そういったものたちだろうか? そしてコロナ対応。
それらの反動で、いま「個の物語の時代」になっているのだとしたら、「悪趣味」もまた、再来しているという可能性はあるだろうか?
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90年代は世紀末感とインターネット開拓時代がまぜこぜになった感覚を持っていました。
世紀末感があり、終わるんだという感覚。世界が閉じる感覚が強く、始まる感覚が薄れていた感じもあったかな。そして、段々と組織から個人へと対象がずれていったように思う。
そこに拍車をかけたのがインターネット。個人が主役であり、小さな声もマイノリティな意見もフラットに拡散していく世界。
連綿と続く物語を継ぐものがいなくなった気もする。一方で永続的に残る記録に縛られ、本来切り離されるべき情報も切れることなく過去の過ち=減点対象となりかねず、神経をすり減らしながら生きていかねばならない時代なのかもしれない。
そういった中で悪趣味なものが生まれるのもわかるような気もする。
そして覆われていたはずの心が無防備になった時代かもしれない。
ikkitime.icon “90年代観” という、近すぎも遠すぎもしない、手ごろに見えることの論考でさえ、これだけ三者三様になるのがおもしろい。