小さな物語は回復するのではなく創造されなければならない
震災とオウム以降、私たちのまなざしが個別的な物語に向けられていった側面はたしかにある。
アンチ・バブルの雰囲気。
9/11もあり、全体としてポストモダン的な、つまり「大きな物語」の崩壊、ということはあった。
そこから何年かはわからないが、微かに幸福な時間があったように思う。インターネット黎明期。「本当の」民主主義がやってくるような、個人が解放されるような、そんな感覚。
その何年間のときがあり、そして2021年という現代がある。嗚呼、インターネット。この空白というか変化に興味がある。
大きな物語の崩壊は、権威主義的なものによる抑圧を打破した点は良いとして、問題はその後だ。
フランス革命後、フランスは一時的にどうなったか?
大きな物語が失われたとして、私たちが生きる上で物語を必要とする点は動かない(1万年くらい経てば、また話は別かもしれないが、数百年レベルでは変わりようがない)。そこで小さな物語への「回帰」や「回復」が謳われたのだが、その術語は正しかったのだろうか。つまり、還っていくべきものは、そこにあったのだろうか。
その「回帰」や「回復」の失敗があり、結局私たちは「大きな物語へ抗っているという小さな物語を装う、愚鈍で非効率な大きな物語」へと回収されてしまったのではないか。現状は、そういうことなのではないか。
では、「回帰」や「回復」でなければ、一体何なのか。
それやはり「創造」だろう。自分で物語ること。物語る力がないのに、大きな物語からただ解放されただけならば、私たちは身近に付きまとう物語に吸い寄せられることになる。その点を、「大きな物語」への攻撃者は理解していなかったのではないか。
大きな物語というバリケードをどかしたら、後は個人の物語が勝手に芽吹いてくる、というのはあまりに楽観的な予想だろう。私たちは、物語を語る準備を整える必要があった。それこそ、文化資本をまるっとその整備に当てる必要があった。しかし、そのことを理解できている大人(特に方向性について決定権を持つ人)が、その時代あまりにも少なくなってしまっていた。そんなことがあったのかもしれない。
小さな物語は、きっと最初は弱々しいものだろう。インターネットで「直接」、公に晒されたら簡単に打ち倒されてしまう。だからこそ、そうでない「場」を作っていく必要があるのではないか。
ikkitime.icon『理不尽な進化』のBC020を、8分くらいだけど聞いていたので、「それは実は順番が逆で、もともと物語は他人と共有されるためのものだったのではないか、サピエンスにとっては」という仮説を思いついた(言ってて自分で大して信じていない)
いや待てよ、近いことを何かで読んだかもしれないな。“自意識は、象をコントロールしているのではなく、むしろ社会の中で立場を守るためのスポークスマンとして発達した(のではないか)”的な本。……なんだったかな。
⇒だめだぁー、まったく探し出せない。
ikkitime.iconそうでなかったとしても、物語欲求には、それを共有したいブランチやそれを大きくしたいブランチがかなり近傍にあるわけなので、交感神経やドーパミンと同じく、かなり使い道を自問自答しながら絞っていかなくはなるだろう。
rashita.icon物語を大きくしたいブランチは、たぶん資本主義・競争主義的なものの影響で、それと隔絶した「小さな物語」の語り方は、そうはならないのではと予想。
rashita.iconでもまあ、「物語ればいい」という話ではないのはたしか。
maro_draft.icon
物語について、遠野物語のような民話や大衆の叛逆のようなものなど色々とつながることが多い感覚。