リベラル・アーツの夢を見るか
「リベアル・アーツ」という言葉には、何とはなしに憧れがある。ikkiTime.icon その言葉を使っていた人や、その言葉の出てきた会話の文脈への憧れなどから形成される憧れが。
自分の中のそれが、どんな形の憧れであるか、は時間と文字数を使えば、まあそれなりに切り出せるけど、そもそもその言葉にどれだけの現代的意味があるかというと、ちょっと疑問も生まれてきた。
願う憧れと、本来的で歴史的な意味がすでにずれているんではないかと。
例えば、私がいま “リベラル・アーツ” という言葉を使いたいときに、そこにこもっている願いは、
特定の会社や時代の構造に依存せず、いつどんな社会でも生きていけるための知識
狭義に、フリーランスとして生きていくための経済的知恵、みたいなものをたぶん含んじゃう
個別の知識(知恵袋的な)ではなく、地頭的なものを鍛えるための学問体系
良き市民として政治に参加したり、政情を担ったりするための精神を涵養するための教養
……みたいなことだったりする。
しかし、「自由七科」まで立ち戻ると、どうにもそういう感じに思えない、というか、現代の科学の隆盛と資本主義・市場主義の世界への伝播、共和体制的民主制の社会ではマッチしない感じになってきてしまっている。
この違和感が、
実用的な知識というのは奴隷のやるものだから、自由市民は、直接は役に立たないけど体系化されうるようなジャンルで頭脳を使わなければならないというような思想があったのか
形相と質料じゃないけど、自然界の “目に見えないほうの” 法則性を追及することが、知を愛するものの自然な方向性で、だから、「自由になったならそれをするだろ?」という発想だったのか それはよく分からない。
そういう意味で、「原義」が頼りにならないとなると、言葉の範囲がゆがんだり拡散したりしないように(“教養” とか “ライフハック” とか)しっかり定義を定める、ということがすごく難しくなる。
たぶん、みんなの憧れにはなりえるけど、みんなのそれぞれ抱いているイメージがみんな違う、ということになってしまうのではないだろうか。
ちょっと使いにくい言葉だ。
rashita.icon
古代ギリシャのリベラル・アーツと、大学教育で推進されているリベラル・アーツと、ビジネス書で謳われているリベラル・アーツは、それぞれ異なるでしょう(後者二つは重なる部分が多いかもしれないけれども)。
教養という言葉も、それを使う人によってずいぶんイメージの幅が広かったが、リベラル・アーツも同様。 現代で言えば、市民リテラシー(Citizen'sリテラシー)に相当するものがリベラルアーツと呼べると思う。
ニュースを「読解」できる程度の知識
読解だけでなく、そこから自分なりに判断を下し、行動できる知識体系、というところか。
ikkitime.iconその観点でいうと、先日「国語・算数・理科・社会」っていう切り分けってすごくいいな、と思ったりしました。
まあ、この大分類の内側の内容には、それぞれ修正はあってほしいけども。
その点で、これは教養として求められる知識と重なる部分がある。