なにかを「邪魔だな」と感じる気持ち
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何かを、「邪魔だな」と感じるとき、その気持ちを深く探っていくと、大きくは2つに分類できる。
自分が何かを達成したい気持ちがあるときに、“それ”が障碍になっている
ポーカーのフラッシュやストレート、に1枚足りない、コレクショントレーディングカードゲームをフルコンプしようとして足りないなど、「美しくない」状況にたいする違和感
とりあえず、ざっくり言って、前者の状況で怒り出したり、その感情を表明したり、その対象にそれをぶつけたりするのは良くない。
極端に考えるのなら、そういう感情が“強く”湧いてしまうのなら、湧くこと自体が社会生活に不適格だから、自分のほうを変えましょうね、くらい言えるかもしれない。
後者だと少し複雑だ。
社会を効率化したり、合否的に改善したりする原動力というかスイッチになるかもしれないから。
もっともその感情ですら、「自分にしか感じられない感覚で、他者の生活をねじ曲げようとしている」「本来美しくなどない社会を、『美しくしたい』という個人の欲望で変えようとしている」という側面は持つし、そう言われてすらしまうだろうけど。
それでも、自分のなかにモヤモヤと湧きあがった感覚を、この2つのうちのどちらにより近いだろうか? と感じわけられる程度には深掘りしていたい。
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前者の感情は渋滞の時の運転者の感覚とも似ているかなと思う。そして、これこそがいわゆる生産性や効率化を重視したタスク管理から離れるきっかけでもあった。
一方、後者の完全に調和した状態に対しての欠落や過剰はも理解されるのは難しそう。最終形を見ているかいないかでも違う。
さらに前任者まで何もせずに問題ないのだから、自分の代でも何もしたくないという気持ちもこういった場では出てきそう。