大吉原展関連についてのメモ(20240210)
そもそも江戸期の売春について、性差別の問題というよりは、江戸期には労働需要がほとんどなく、売春の原因は男性中心主義ではなく貧困では?近代の資本主義みたいに大資本が労働需要を生み出すようなことが江戸期にはなかったはず。
巨大産業とかがあれば雇用が生まれるが、当時たいしてあったわけでもないし、持たざる者は売春するだろうし、当時の江戸幕府に雇用を生みだせば自然と売春は減るという観念があったはずもなく、管理売春として制度化したのは性差別的な文脈とはおもわない(自然発生してしまうので管理するほうがマシ)。現代と条件が違いすぎて当時の「買う側」の批判しても仕方ない。性の商品化を生みだしているのは貧困で、「買う側」の「男性性」なるものがどれだけ問題化されるべきなのかちょっとわからない。『罪と罰』のソーニャについて、「買春する側の男性的欲望が悪い」などと言っても意味がないし、ソーニャを扱う女郎屋が倫理的に問題あると言ったところで、ソーニャは家族を助けるために稼いでいるのであって、売春が禁止されれば困るだけだ。これは男性が倫理的に振る舞うことによって解決される問題なのではなく、労働需要を生み出すことでしか解決されない。
それこそ、吉原みたいに文化が発達した世界での「性の商品化」は、貧困という文脈とは違った意味で現代的なものがあるようにおもう。高級な花魁はかならずしも身体を売っていたわけではなく、まさに文化を売り物にしていたと思う。花魁などは派手でかつ教養があったりするし、そのブロマイドとしての浮世絵だったりする。これは体を売るためのシステムではなく、容易には体を売らないためのシステムで、売春以外の活動が商品になっている。現代の芸能界に近いものがあるとおもう。
吉原に発達したのはメディアシステムにとりこまれる性なのではないか。浮世絵や吉原細見のようなメディアによって、性は商品化される。これはいろいろなところに書かれるように一晩いくらといった即物的な売買春ではなく、むしろその「一晩」に辿りつくまでの道程を買っているわけで(「宵越しの金を持たない」とか「粋」とかはたぶんそういうところで消費する=経済活動をする)、消費者が買おうとしているのはすでに女性の肉体ではなく、文化的体験だとおもう。花魁の浮世絵を買うのも、別に遊女との性交を目的としない独立した経済活動だろう。浮世絵が性交の代替であると考えた人もいないだろう。
「文化とか言っても売春をコーティングしているだけでしょ」と言う人がいるとおもうけど、そのコーティングが重要なのは、即物的売春と違ってさまざまな雇用を生み出すことだとおもう。「吉原が栄えた」というのは搾取によって云々というより(そもそも搾取しているとしたら幕府だろう)、観光地化によって売春以外の消費活動が促進され経済が潤っていたということで、それはやはり吉原が文化を構築していたからだ。吉原がエンターテイメント空間だったというのは、売春という実体を隠蔽するためのものではなく、エンターテイメントが経済的活動として成立したからだろう。
「売春」という関係において、「買う側」が男性で「売る側」が女性という関係がかなり多いが、これはお金を男性が持っていて女性が持っていないという一般的社会構造に問題がある。こういう一般的な問題の先に、男性が「女性を所有する」という関係が成立してしまう。このへんが性差別の構造的な問題としてある。所有の問題は、吉原のような売春施設でもそうだが、むしろ結婚のほうが「所有」に近い場合が多いだろう(『人形の家』のノラなど。ていうか『罪と罰』でも妹のドゥーニャは貧困による身売りをするかどうかが主題ですよね)。「大尽」は「粋」なのかもしれないが、「身請」はもはや「購入」である。吉原は身請に至るまでのプロセスが双六のようにゲーム化されているシステムなのではという気もする。
吉原のようなシステムで、女性の売買は二重化している。一つは一番最初に女郎屋が女衒にお金を出して買うこと。もう一つは文化的体験としての買春。身請は、後者によって前者を解消する形になるのだが、ようするに女性の所有権の移転をゴールとした双六としてセットされている。「文化的体験としての売春」というと怒る人がいるのだろうけど、吉原における身請をゴールとした双六も、嫁入りまでの過程を双六として表現した明治の女学生も同じような仕組みではないかとおもう。こういうのが現代においても残っているのは、売春より結婚だろう。
男性が経済的主体となり(買い手)、女性が経済的客体(商品)となる。男女差別という話は結局この経済的非対称性という問題として理解すべきでは。
性暴力があったかという話で言えば、それはあっただろうが、そういうのがあるとたぶん客のほうが出禁になるとおもう。吉原というのは「女性の獲得」に奇妙なほどにルールが発達した世界なわけで、それを「暴力によって獲得する」というようなルール違反がおこなわれるとゲームがなりたたない。そういうのははじかれるはずだとおもう。吉原における性暴力より他の場所(岡場所)のほうが多いだろうという推測はたつが、事実どのくらい事例があったかは、調査しないとわからない。
書いて思ったが、『罪と罰』において、ソーニャとドゥーニャのあり方は、家族の貧困と自身の身売りという意味で共通している。ソーニャは体を売っても魂は売らなかったが、ドゥーニャは魂を売るかどうか(=家族のために嘘をつくかどうか)で悩んだ。ドゥーニャにおいて財産家との結婚というのは貧困を解決する手段であったが欺瞞に満ちたものであったわけで、ソーニャが売春によって信仰を失わなかったのと対比的な境遇にある。
20240210