アフォーダンス
不変項
「不変項」の相対性 ――グッドマンのギブソン批判から
だがわたしは最新のギブソンの見解にはいくつか問題点があると思う。いまや彼の分析の基礎的要素となった「不変項」は――彼の曰く――「名称もなく形態もないものである」。彼は、ひとが知覚するものは事物そのもの(things-in-themselves)だと述べているのではないだろうか。だがそう言うことは、世界の種々の正しいヴァージョンによる寄与分をすべて除去した場合その跡に残る中立的世界を捏造することになる。 菅野盾樹氏の見解。
だからといって筆者は、グッドマンとともに、「不変項」という概念が全面的に妥当性を持たないときめつけるつもりはない。ここが肝心な眼目なのだ。グッドマンの矛先はギブソンとその学派が自ら称揚する「実在論」にそのまま突きつけられている点を看過してはならない。
すなわち、ギブソン学派のいう「実在論」はどこまでも中間的な形而上学的身分あるいは中間的審級しか持たないのである。逆に言えば、彼らの実在論には絶対性がないのであり、最終審級には属さない。なぜなら、ひとが現に具えるような身体性と環境との相互性から現出する「不変項」は、それもまた、ひとつの構成された記号系に他ならないからである。
生態光学について
私が生態光学とよぶものは、知覚に対する有効情報に関するもので、物理光学や幾何光学とは違うし、生理光学とも異なる。生態光学は、これら既存の学問のすべてから借りるものは借りながらも、それらを乗り越えて、それぞれの学問分野の境界を横切っている。
生態光学は、物理光学ではその基礎としていないいくつかの特異性にもとづいている。つまり発光体と非発光体の区別、放射光と照明光の区別、また光源から周囲に伝達される放射光と観察者の眼の位置と考えられる媒質の一点に集まってくる包囲光を区別する。(生態学的視覚論 51~2頁)
知覚系
「この仮説的場合は網膜と眼の違いを示している。つまり受容細胞と知覚器官の違いである。受容細胞は刺激されるのに対し、器官は活性化される。刺激情報による眼の活性化がなくても、光によって網膜は刺激されうる。実際、1個の眼は二重器官の一部であり、一対の動く眼の一つである。眼は動かすことのできる頭にあり、場所を変えて移動可能な身体についている。これらの器官は階層をなし、私がいうところの知覚系を構成する。このような系は決して単純には刺激されないが、その代わり刺激情報が存在すると活動を開始する。」(58頁)
「受容細胞に対する刺激と視覚系に対する刺激情報の区別は、次の点で決定的である。受容細胞は、完全な系の一つの器官に過ぎない一つの眼、受動的で、要素的な解剖組織上の構成要素である。感覚の伝統的概念は、この新しいアプローチではほぼ完全に放棄される。光による刺激とそれに対応する明るさの感覚が、視知覚の基礎であると伝統的には考えられている。神経の入力は大脳の知覚過程を作動させるもとになるものと考えられている。しかしながら、私は全く別の仮説を立てる。なぜならば、刺激そのものは情報を一切含んでおらず、明るさ感覚は知覚の要素ではなく、また網膜の入力は大脳がそれにもとづいて作動する感覚要素ではないことを示唆する証拠があるからである。
視知覚は単に刺激作用の欠如のみならず、刺激情報が欠けても成立し得ない。等質の暗闇では視覚は刺激作用の欠如のために生起しないし、等質的包囲光配列の条件では、適切な刺激作用とそれに対応する感覚があったとしても、情報の欠如のために視覚は生じない。」(58頁)
「網膜に映る像を知覚する」という古典的理論の批判
「この理論は、スクリーンや表面上に投影され、見ることを目的とする像に対しては効力を見事に発揮する。しかしながら、これがうまくいったことが、網膜上の像は一種のスクリーンに投影されていて、それ自体見ることのできるような物、つまり絵のようなものだと信じ込ませてしまっている。それは心理学の歴史上、最も魅惑的な虚像の一つ、網膜像は見ることのできる何かであるという過ちを導いている。」(65頁)
これは素晴らしい洞察だ。
「知覚活動を考えるとき、何かが視神経に沿って伝達されると仮定する必要はない。また、網膜に投影された逆さの像、あるいは一種のメッセージが脳に伝えられると信ずる必要はない。我々は視覚を知覚系として考えることができる。脳はこの系の一部にすぎないし、網膜入力は眼球調節作用を喚起し、網膜入力を変えていく、というようになっているので、眼もまたこの系の一部である。そのプロセスは一方向的伝達ではなく、内環的である。眼-頭-脳-身体からなる系は、包囲光の構造における不変項を記録する。眼は、像を形成し伝達するカメラでもなく、また、網膜は、単に光の指によって打たれるキーボードでもない。」(66頁)