Works behind Glasses
ガラスの裏面に絵具を擦りつけた作品群。ガラスごしに絵具の接着面が見えている状態なので、「裏」を見ているように感じられる。
これらの作品群のタイトルは、 Aladin とか Abdallah とか Sindbad とか Bagdad とかいったもので、あきらかにアラブ的な表象であることが意図されている。絵画が通常「表」から見られることが意図されているものであるとしたら、ここで「裏」を見せるリヒターの意図がこのアラブ表象と結びついていることはあきらかだ。
Birkenau がベタにアウシュビッツを「表象不可能性」なものとして扱っているように見えるとすれば、それは勘違いである。そもそもリヒターは「モーツァルトの音楽にもかかわらず、強制収容所は存在した、だから芸術など役にたたない、とはいえませんし、アウシュビッツのあとではもう詩は不可能だ、ともいえないのです」とアドルノへの反発ともとれる発言をしている。
順をおって考えるべきであるが、ドイツ赤軍の獄死について描いた連作「1977年10月18日」は1988年に制作された。
この時点で、リヒターがドイツ赤軍のパレスチナ解放戦線への関与をどれだけ意識していたかはよくわからない。だが、「アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言及が、イスラエルによるアウシュビッツの政治的利用にとってきわめて有用であったのは疑いようがない。それはあらゆる虐殺のなかでアウシュビッツを特権化するとともに、その表象不可能性を作りだす。この表象不可能なアウシュビッツは、その「表象不可能性」の後ろにイスラエルによるパレスチナへの犯罪的行為を覆い隠してしまった。アウシュビッツについて沈黙を強いられるということはパレスチナについても語ることができなかったことを意味している。
ヤン・トルン・プリッカーとの「1977年10月18日」をめぐる対談では、ドイツ赤軍のどこに関心をもったかについてもインタビューされているが、イスラエルとパレスチナという名はでてこない。
Works behind Glasses の制作は2002年からのようだが、アラブ的な名称が付与されるのは2008年からである。2008年12月にはイスラエルとハマースのあいだでガザ紛争が発生し、アラブ諸国では「ガザの虐殺」と呼ばれている。本作品の制作年が2008年の何月であるかまではWebに構築されているアーカイブからはよくわからないが、絵の裏面を見せることで「表面によって隠蔽されるもの」の存在を示唆する方法は、中東情勢をめぐる西側諸国の報道の一面性を意識して選択されたものであろう。リヒターはプリッカーとの対談において絵がニュース報道の断片として受けとられるというアイデアを歓迎していることを想起してもよい。
ビルケナウの制作はそれより後の2014年になる。リヒターが「ビルケナウ」について「生涯にわたる負債」だというのは、「アウシュビッツの忘却」を「負債」だと述べているわけではあるまい。女性のヌードとアウシュビッツの写真を並列することすら厭わなかったのだから、アウシュビッツを特権的な瞬間だと考えているわけでもない。それはアドルノへの反感からも伺える。Works behind Glasses が示しているのは、リヒターにとっての心理的な負債の所在である、と推測することは不合理なことではないはずである。そうすると、リヒターがのべる「負債」とは、アウシュビッツについて沈黙を強制されることによって、ガザの紛争についての沈黙をつづけてきたことであろう。ドイツ赤軍の死への哀悼は、遡行的にドイツ赤軍のパレスチナ解放戦線へのコミットメントへの哀悼として把握される。ドイツ赤軍の死によって沈黙を強いられているのはパレスチナだった。1988年に「1977年10月18日」の表象を想起することにおいても、パレスチナは隠蔽されている。
もっとも、画家はこのような思考をもっているのであれば、こういった思わせ振りなスタイルではなく、より直接的な表現をおこなうべきであることは疑いもないことであり、ビルケナウが誤解されるがままに任せるべきでもないが、直接的な語りを避けるのは韜晦に満ちた画家の習い性なのだろう。悪趣味なものだとおもうが、彼の韜晦はまた負債を増やすにちがいない。
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