高橋由一、北澤憲昭
北澤憲昭が高橋由一の風景画について、柄谷行人の「周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」inner man において、はじめて風景がみいだされる」をひきながら、西洋的な「固定された唯ひとつの視点から世界を見通す視線の形式」の成立を見出そうとしているけど、どうだろうな...。北澤は、「視覚の制度の確立」をいいたいから、高橋由一の風景画によって遠近法的な観念の輸入が完成したということを主張したいわけだけど、柄谷の議論もふくめてだいぶ疑問がある。 この絵のしんとした雰囲気は、何かガラス越しに世界をのぞき込んでいるような感覚へといざなうが、思うに「風景」とは、つねにすでに前方にあって、見る者を疎外する景観、いうなれば博物館のガラス・ケースのなかの物品たちのような在り方を示すものであり
と述べるんだけど(『眼の神殿』)、同じ「栗子山隧道図」でもトンネルの中から見ている図もあるんだよね。
https://scrapbox.io/files/65abf80f8f53c6002529bb13.jpg
こっちは、空間に身体が包み込まれる状態を描いている。そうなると、北澤の主張する「見る者を疎外する景観」とは?という話になる。
もうひとつ、主体・客体の分離というデカルト的な主題は理解できるが、その図式を絵画上の遠近法と同一視することに疑問がある。パノフスキーにとって、近代的な遠近法とは、主体と客体の一致、調和する場面こそが遠近法の象徴的な意義だったわけで、たしかに客体的な世界が自立して主体を疎外するという契機を遠近法のなかに認めるが、世界から主体の排除を完成させたのはキュビズムである。
高橋由一のこの隧道図について、やや直感的にだが思うことを記述しておくと、人間と自然との関係の変化、かつて山水に描かれたような自然ではなく、人間の巨大な力によってできあがる巨大な空洞、自然がそこにあられもない姿で立ち現れること、そういったことはいままでなかったわけだ。自分には、由一はこの人間による自然の征服、人間が作りだした世界について描いているように思われる。人間は、視覚的存在として世界から疎外されているどころではない、むしろ積極的に関わって改変しているのだ。
明治の博物館導入に際して、鑑賞者と鑑賞の対象が分離され、それを北澤は視覚の制度化=主客の分離と読むのだが、その由一の博物館構想と由一の絵画が、入れ子関係になるように配置しようとする。そのせいで、博物館で発生する「観客」という視覚的な制度を、絵画のなかにも読みこもうとすることになる。自分はこれは無理があるアイデアだとおもっているのと、視覚の制度化=主客の分離とする図式化が雑で、むしろ写真技術の輸入などが意味したものについて拾えなくなるとおもう。