過剰フォーマリズム
作品の形態的特徴についてばかり過剰に分析したがる傾向について。
クレメント・グリーンバーグのフォーマリズムという方法論の選択は、ダダへの忌避にはじまる。ダダとは、社会規範という意味に満ちた世界に対する挑戦であるが、グリーンバーグのフォーマリズムはダダの批判として成立している。それが保守的なものであることは疑いようがないが、美的規範の再確立を目指す野心的なものでもあった。グリーンバーグは、鑑賞者と作品とのあたらしい契約を取り結ぼうとしたのである。「純粋な視覚性」とは美的な感覚であると同時にこの契約のことであり、そこで鑑賞者が身体を忘却することを要請するような美学である。 日本では批評空間の「モダニズムのハードコア」特集以来、フォーマリズム的批評の流行がある。語彙の開発もフォーマリズムをベースにおこなわれている。たとえば、「主体」や「社会」といった語彙は典型的に避けられるだろう(要調査)。
やたら形態的特徴の分析をやりたがる傾向のなかで、観客の存在や立ち位置は根本的に問われることがない。観客は、絵画なり作品なりを見ることで「観客」になり、作品が作品となるのはギャラリーや美術館で展示され鑑賞者に目撃されることによる。作品 - 鑑賞者という系列の存在はそもそも鑑賞行為が社会的な活動であることを示している。ダダイズムが問いなおしたのはこういった社会関係としての芸術・鑑賞の有り様である。過剰フォーマリズムの前提は作品と鑑賞者が抽象的な場において一対一で対決できるという仮定である。
過剰フォーマリズムは形態的特徴の分析に終始するが、この批評に特有の政治性の欠如は、作品読解から政治的な読解を排除しているために起こるわけではなく、鑑賞行為の社会性が排除されているために発生している。マイケル・フリードがミニマリズム批判の名において敢行したことはまさにこういうことで、鑑賞行為を成立させるさまざまな社会的条件を捨象することだった。批評行為を含む鑑賞はそれじたい社会的なものだが、過剰フォーマリズムにおいては鑑賞者と作品しかいない。評者自身を問いなおす契機を持たないがゆえに、作品読解の政治性が開かれない。自己自身のポジショナリティを排除するのがこの批評の特徴なのだ。