浮世絵の終焉と明治のジェンダー(書いたはいいが没)
明治期の浮世絵の没落とジェンダーの関係について論じてみたい気持があり、以下のようなものを書いてみたが、没にする。
江戸期の吉原と浮世絵、明治期の公娼制度など管理売春の問題など、もっと調査する必要がある。とりあえず試論として残しておく。2023年12月30日
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江戸期から続いた浮世絵版画は、おおよそ明治30年を過ぎるころには急速に衰退する。浮世絵版画の衰退は明治20年代からかなり進行し、日清戦争による特需(明治27〜28年)で生きながらえていたが、30年代に入って決定的に衰退することになる。最後の浮世絵師と呼ばれる月岡芳年は明治25年に歿し、その後継者と目された水野年方は、明治30年代に入り主要な活動を日本画にシフトしている(版画の制作もしているが数は多くない)。
この衰退より以前に、明治に入ってすでに浮世絵は決定的な変質をしている。検閲による春画の終焉である。明治元年に新政府は言論の自由を封じる目的で出版に官許を必要としたが、翌明治2年には「淫蕩ヲ導ク事ヲ記載スル者軽重ニ随ヒテ罪ヲ科ス」とした。月岡芳年に『全盛四季の夏 根津花やしき大松楼』という妓楼の入浴図があるが、官憲から店頭に飾ることを指弾されていた(おそらく芳年歿後の話で明治20年代とおもわれる)(#1)。芳年も暁斎も春画を描いたが、版元としてはコストをかけて板木を作ったあとで出版禁止となるリスクを負うことは難しく、自然と春画も肉筆が中心となり、それにしても芳年の世代までのようにおもわれる。明治30年代以降に好色表現はアンダーグラウンドに押しやられることになる(#2)。
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江戸に成立した浮世絵の「浮世」とはもともと「憂き世」であり、仏教的な現世否定が転じたもので、江戸期に町人文化の発達を背景に現世肯定的な意味に変質した(#3)。性表現と春画は、この肯定性をよく表している。江戸期の美人画のおおくは花魁(娼婦)だった。この花魁たちが実質的には人身売買的制度によって成立していたとしても、そういった半奴隷的状況においてもプライドがあり、浮世絵における彼女たちの表現は「見られる客体」としての美人画、つまり行為主体性(エージェンシー)を欠いた客体というわけではなく、こういったプライドの表現としてある。町絵師たちにとって身近だった妓楼の女性が、賤業に従事しているという意識が一切なかったことは疑いない(歌川国芳は妓楼で下絵を描いていたと伝えられる)。浮世絵における性の享楽的表現は彼女たちの存在を肯定することでもある。町絵師とて、お抱え絵師のような生活保証された存在でもなんでもなく、絵を売って口に糊するような暮らしも不安定な「憂き世」だったわけだが、その憂き世をともに暮らすものとしては表現のポジティブさは重要だったとおもう。浮世絵師もまた上流階級の絵師からすれば賤業に過ぎないのである。
こういった背景から見るときに、明治における春画のアンダーグラウンド化は「憂き世=浮世」の価値意識そのものの後退を意味する。アンダーグラウンド化というのは、存在しているのに公式の領域からは追放されていることを意味する。売春における人身売買的システムの実体は変化していないにもかかわらず、表現の領域からは春画や花魁の表現は消滅する。
月岡芳年の後継者と目される水野年方は、明治20年代から歌川派的表現を離れ、新時代の文芸雑誌にイラストレーターとして活躍する。彼は最後まで版画を作ったが、芳年のような性の魅力を語る女性ではなく健康的な母子像を描いている。年方は、師の芳年が抱えていた江戸の風俗から次第に離れ、新時代の絵師として活躍する。次に挙げる水野年方の『今様美人』は明治31年の制作である。
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一作例だけをみても仕方ないが、年方はほぼ性表現をおこなっていない。これは明治20年代くらいから検閲が強化されたことと対応している。明治16年には出版できた芳年の『全盛四季の夏 根津花やしき大松楼』は、明治20年代にはいると店頭に飾ることができなくなった。山田美妙の『蝴蝶』に掲載された渡辺省亭による裸婦画が論争を巻きおこし、内務省告示によって裸婦を含む図が出版禁止の憂き目にあったのは明治22年のことである(4)。水野年方における性表現の欠如は、「浮世絵」という概念に込められていたものの終焉を意味するのである。
明治30年ころの女性の教育は良妻賢母型のものであるとしばしば言われる。この「良妻賢母」とは理想とされた女性のありかたであって、実在の女性の表現ではない。また、良妻賢母教育がおこなわれたのは初等教育過程においてではなく、高等教育においてであろう。明治23年には女性の小学校就学率が23%だったのが、明治の終わるころには97%まであがる一方、大正4年における高等女学校の進学率が5%程度である。良妻賢母はブルジョワジーのための教育だった。
出版業界から性表現が抑圧されていく過程は、女性教育と裏表の関係にあるようにおもわれるが、この5%のためのものである。中間から下層階級の表現は沈黙することになる。当時において売春行為は公然たる秘密として存在していたわけだが、ここには表現が与えられなくなった。表現されないものは、無いものとして扱われてしまう。性は意識の外にひたすら外部化され、周縁化されていく。「従軍慰安婦」という形で、女性の隷属的性がいわば機能として扱われていくことになる素地が、ここにあるとおもわれる。近代日本において性の表現は顔を失ったのである。
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(#1) 永田生慈『資料による近代浮世絵事情』 pp.34-35
(#2) この箇所の記述は『季刊浮世絵 34号』(昭和45年8月発売)所収の「明治の秘版画と『やくものちぎ梨』」(林美一)を参考にした。明治年間の有名な春画には「やくものちぎ梨」があり、春陽堂当主和田篤太郎の依頼で富岡永洗のによって制作され、内輪で配布されていた。富岡永洗は水野年方、武内桂舟と並んで明治挿絵界のスターだった絵師である。
(#3) 田中喜作「浮世絵の発祥」(『新小説 大正15年8月号』)