梅津庸一によるホックニー展のレビュー
読んでおもったけど、いわゆるモダニズム(狭くMOMA的な価値観のことを指すものとする)は、本人たちの意図と無関係に美術の制度化を推し進めたとおもうけど、市場には制度としての美術に数えられないような美術ってたくさんある。いまもたくさんあるし、それこそエコール・ド・パリのころの絵も制度的な美術に回収できるわけではない。
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梅津に問われてしまう主体も制度としての美術の相関物でしかなくて、制度の外には問われるような主体もない。ただ、冒頭にあれこれ書いているように美術メディアの拡張で制度のほうが広がっていると言えなくもないわけで、ここでまんまと梅津のいうとおり「主体」を問いはじめてしまえば、それこそ制度の一部になっていく。
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梅津のこのレビューはおもしろいけど、観客がふだん見ていない楽屋を提示し、巨匠にたいする観客という読者の位置付けを崩して、観客でなくなった何者かに「おまえの主体はなんなんだ」って問わせているわけだけど(こんな問いに当然意味があるはずもない)、手札を開示し楽屋を見せホックニーの大衆性を強調すること(これも楽屋から見た視点なのだ)などなど、どれをとっても共犯関係をむすぶための告白で、文章うまいぶん本当に信用ならん書き手だなとおもった。
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おかけんが途中で唐突にディスられるが、こういうのも一部の人には効く物言いで、「岡崎って人がいつもすごく偉そうなこと言ってるけど絵はおもしろくないよね」ってそういうのに溜飲を下げる人はいくらでもいる。それこそポピュリズム的な物言いではあるし、こうやってダシにするのは素朴に敬意ないんじゃないのとはおもう。
ちなみに、私見では岡崎作品は制度的な美術というよりマイナーアートとしての良さがあるとずっとおもっている。デカい作品でいいなとおもったことがないけど、小さい作品はだいたい良さがあって、それは制作方法とかなんとかからでてくるというより、感性の問題だったり、岡崎さん自身の器用さに起因しているとおもう。彼の言論活動から来るモダニストとしてのイメージとずいぶん違って、職人の延長みたいなタイプだとおもう。
自分としては岡崎作品についてはこんなイメージだから、梅津が岡崎作品を美術制度的な文脈で読もうとしてつまらないと断言するのは、制度としての美術にくわしすぎてそのようにしか読めなくなっているんだろうなとおもう。
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長々とアレだが
「そんなことを繰り返していてわたしたちの「美術」の営みはいったいどこに蓄積され得るのだろうか」このへんの梅津の記述は「悪い場所」(椹木野衣)を踏まえていることがわかるが、梅津の制度的な美術理解を鑑みるに、悪い場所論じたいが制度としての美術と依存関係にあるようにおもわれる。 /icons/hr.icon
これは「平成美術」についてのメモ。
まだ論点が整理できないけど、「悪い場所」は行きつく場所が制度にしかないのではないか。それはカオスラウンジがインターネットカルチャーをアートにアプロプリエーションすることで成り立っていたのと同じことなのではないか。この件はいずれ主題化して考えたい。
2023/09/26