松方家と十五銀行(近畿経済圏の歴史的発展)
しかし、大正九年松方系の事業の機関銀行たる浪速銀行、丁酉銀行、神戸川崎銀行の三行で合併して、資本金を一億円に草紙して以来、内容悪化につきとかくの噂が立つようになっており、更に昭和三年頃には払込資本金の三、四倍、総預金額の約半額程の大欠損を抱えるに至っていた。
即ち、松方系の事業は、大部分が、戦時急激に膨張した造船、海運、機械、製鉄等であって、それらが大戦の終了、大正九年の大反動、ワシントン軍縮会議による海軍拡張計画の大縮小、大正十四、五年の円為替の急騰等の大打撃を受けながら、必要な整理を怠り、そのシワが十五銀行の固定貸出の一大集積となったのである。このため昭和二年五月末には松方一族に対する貸出学は実に一億四千二百万円に上り当時の貸出総額三奥八千八百万円の四割にも及ぶ程になっていた。(第三十七表)。
ところで、昭和二年四月、恐慌により、特に台湾銀行休業以来の猛烈な取引に堪えかねて、十五銀行が四月二十日以降営業継続が困難だということになると、大蔵省、日銀もその救済作を種々狭義したが、遂に如何ともしがたく四月二十一日休業を発表した。十五銀行は東京を始め、関西、九州に三十六視点六十の出張所を有して取引範囲も後半であったためその打撃も大きく、各地に大取り付けが起り、ここに未曾有の金融大恐慌の勃発となった。