松方コレクションの返還の経緯についてのメモ
上記の資料によれば、フランス政府内でも、敵国財産として処理するか、松方家に返還するかの議論があったようだが、フランス政府は最終的には日本政府への「寄贈」としており、松方家への「返還」ではない。
インタビュアー(おそらく垂木祐三)とのやりとりのメモ。
–– 平和条約でフランスにあった日本の財産はフランスのものになったといいながら、フランス側は松方さん側が権利を放棄することを明確にしておいてくれということを言っておりまして、昭和三十年に松方三郎さんの名前で文部大臣あてに、松方コレクションについては権利を放棄しますという文書をお出しになっておるようですが。
松本 僕は知らん。
–– そうですか。松方三郎さんがコレクションについて一番の権利を持っておったのかと思いました。
松本 いや、そんなことはない。権利はなにもない。親類のうちでは一番美術に詳しい。
このやりとりで、インタビュアーの切り出しは重要である。フランス側は松方側に「返還」はしないので、権利放棄をさせる。松方三郎が松方コレクションについての権利放棄を明確にする(なぜ文部大臣あて?)。この手続きは、フランス政府からの「寄贈」であることを明確にするためのものである。 松本重治は、このインタビューでたびたび「返還」と呼んでおり、フランス政府から日本政府への「寄贈」であるという認識に欠けているようであるが、交渉に介入した彼がフランス政府側の要求を知らないはずはないし、松方三郎の動向を知らないはずもない。
(追記: 松本重治は強硬派すぎて交渉がまとまらなくなるので、現場から外してくれという流れになったらしい)
なお、この資料ではフランス側が「寄贈」におちついた経緯についてあまり詳しく述べられていないが、以下の松本の発言は注目に値する。
松本 初めは、フランス政府は、日本の松方ファミリーに返すということを言っておった。それで僕はずいぶん交渉したよ。そのうちに何か仏領インドシナでフランスの人間が日本軍に虐待されたとかいろいろなことがあって、それで日本の個人にも返さないという運動がおこった。それから今度は政府対政府にきりかえた。
松本の話では、松方コレクションは松方家の財産であるため「松方家への返還」を強く望んでいたが、結局それは通らなかった。松本はここで日本軍のフランス人虐待を理由としているが、理由がこのとおりであればそもそも日本政府への返還も危うく、「政府対政府にきりかえた」という理由になっていない。推測するに、松方幸次郎が軍需産業である川崎重工の初代社長であり、また、戦時中には大政翼賛会議員であったことなどが、フランス政府が「松方家への返還」を選択しなかった理由ではないだろうか。
先程の引用で、松本は松方三郎がコレクションの権利放棄についての文書を文部省に提出したことについて知らないと言い、また三郎にはその権利はないと述べている。三郎は幸次郎の養子でもあり、松方家当主でもあったはずで、権利がないはずはないし、松本重治がこの間の事情について知らないはずはない。松本は、三郎のコレクションの権利放棄について「知らない」のではなく否認しているのであり、また三郎に権利がないと述べるのも三郎の行為の正当性を否定していると言える。インタビューにおいて松本はずっと「返還」という言葉をつかっているが、フランス側と交渉したのであれば、どのような理由で「返還」が不可能で「寄贈」となったのかは把握しているはずである。
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同インタビューにおいて、他に気になる箇所を抜粋しておく。
–– それから文部省では、昭和二十八年の十二月、松方コレクションのために美術館を作らなければならないということで、設立準備の協議会を作りまして、先生にも委員になっていただいております。当初国立近代美術館の分館にしたいというようなことで、先生もちょっとご苦労されたと思います。
松本 文部省が返還してくるものをいれる美術館を文部省傘下の近代美術館分館とするという決定をするんですよ。それで予算案に入れたんだ。僕はフランスとの約束の条件は、ザ・ミュージアム・オブ・モダン・ウェスタン・アートで、分館と書いたら契約違反になるから独立のミュージアムでなければいかんのだと言った。そうしたら次官がね、これは予算に入ってるんですから修正できませんというんだよ。それで僕は福永君が内閣委員会だったので、福永君の所へ行って信義の問題だから独立のものにしなきゃだめなんだと言ったら、話はわかったというわけでね。それで文部次官を呼んで、松本君の言うとおり独立のものにかえなきゃ、文部省の予算は全部とおさんと言ってがんばった。そうしたら次官はすっかり恐縮しちゃって、こちらの言うとおりにしてくれた。僕は野党の方も修正に賛成しないといけないから、社会党の石橋君に話してね、賛成してくれた。それで全会一致で予算を修正した。あれはもう半日で全部解決したよ。それで西洋美術館ができた。
これは西洋美術館が近代美術館と分かれた理由であるが、だいぶ奇妙である。近代美術館は1952年にできており、コレクション返還の交渉が1950年ころからで、官僚が近美の分館として予算を通すのはなにも不思議はない。
フランス政府が、「近代美術館分館」ではダメで、「西洋美術館」という建て付けでなければならない、と主張しているのかどうかは不明であるが、そう主張したとして、理由がまったくわからない。
もともと予算承認がおりた「近代美術館の分館」に、フランス政府寄贈の元松方コレクションを収蔵するというのは、合理的な案だろう。いまの近代美術館は西洋近代の美術の収集にもつとめており、松方コレクションが近美分館として成立していれば、キュレーションもかなり自由が効くようになったようにおもわれ、ここで分裂したことはかなり残念である。松本は、「近美分館」という建て付けだとフランスにたいする義理がたたないとし、この合理的な案を捻じ伏せて、予算案を覆して独立組織を作るよう働きかけたことになる。結果として現在にいたる組織的な分裂の地盤を作りだしたのだが、これはそうとう奇妙な動きである。
現在の西洋美術館と近代美術館が、なぜ組織としてもコレクションとしても一つではないのか疑問ではあったが、この経緯を読むとますます奇妙である。松本重治に西洋美術館を独立組織としたかった強固な理由があるのではないかと勘繰りたくなる。
(追記: 松本が近美の分館案を退けて西洋美術館という独立組織にしようと画策したのは、彼が交渉から外された後である)
参考:
La présence culturelle de la France au Japon et la collection Matsukata(Yuichiro Miyashita)