明治大正期の「浮世絵」をめぐって
1. 藤懸静也と大正の浮世絵派
大正7年11月に藤懸静也が「板画と肉筆画」というテキストを『錦絵 20号』に寄稿する。これは文展における「浮世絵派」の台頭に対する反応という性格が強い。この藤懸の論考は、以下のような断言によって特徴づけられる。
同年の文展における、鏑木清方、池田輝方、上村松園などの絵は「浮世絵」の系譜をひいているが「浮世絵」ではない
天明期の黄金期浮世絵(歌麿、栄之ら)と比較し、上述の画家たちは内容に貧困である
現代の「浮世絵」派は「板画趣味」を解さない
清方、輝方、松園らに対する藤懸の論難は、ほぼ難癖と言っていい。彼らの現在の芸術上の課題がなんであるかは無視して、いきなり天明寛政期の画家たちと比較するという非歴史的な手続である。
池田輝方は「浮世絵」という言葉が嫌いだったと三田村鳶魚が伝えている。その詳細はわからないが、藤懸のせいではないかと思う。藤懸の論考が掲載された『錦絵』には、清方輝方松園の三人が文展の自作へのコメントを寄せており、その同一ページに藤懸の論考が載っているのだから彼らが読んだことは疑いない。
藤懸はこの文展評に先行して、大正7年1月に「板画の趣味」というテキストを『錦絵 10号』に寄稿している。ここでは、「現在の木版画の価値なき理由」として、より直接的に、
年方月耕などの錦絵や文芸倶楽部などの口絵では、昔の板画趣味は窺はれない。これらの新しい板画は筆法彩法の微に至るまで、原画と違はないやうに努めた結果、板画の長所、特色は遂に殺れ、板画としての価値の極めて少ないものになつて了つた。
と述べる。明治の浮世絵を「肉筆通りの原画複製」であるがゆえに価値がないとまで断言する。
輝方は大正期にはいっていくらか版画を作っているが、藤懸のこの難癖は師を貶めるものでもあり、またその師の技法および課題の引き受けが輝方の制作のベースにあった以上は許しがたいものだっただろう。
大正8年、鏑木清方は「浮世絵派と鑑定」というテキストを『書画鑑定法』に寄稿する。
以下の抜粋に、藤懸静也らの立場への警戒を読みとるのは容易である。
私共から見ると、浮世絵は肉筆よりも木版の方が尊重され、又価値から言つても、木版の方が肉筆よりも高いと云ふ今日の傾向は、全く不思議に堪へないのである。
木版が肉筆以上に尊重されるやうになつた第一の原因は、西洋人の趣好に適して、盛に欧米に向つて輸出されたと云ふ事から来たものであらう。決して木版は肉筆に比較して美術的価値が優つて居ると云ふやうな理由から来て居るものではなからう。
木版は単に木版として価値あるもので、肉筆と比較して其価値を云々するやうなものではないのである。詰り木版は肉筆の複製である、複製物として一階級下つたものと見るべきもので、即ち肉筆を美術品とすれば、木版は工芸品である。美術品に對する工芸品は、美術的価値から言つたら一階級低いものである。即ち現今の流行は其本末を転倒したものであると思ふのである。
「木版は単に木版として価値あるもので、肉筆と比較して其価値を云々するやうなものではない」という言い方には、前年の藤懸への強い非難を読むことができるだろう。
鏑木清方と藤懸静也の対立はあきらかである一方、両者のロジックは「複製としての板画」という同じ土俵にのっている。どちらも、「肉筆画を原図とする複製画」の存在を仮定していて、そのような複製としての版画の価値を低く見ている。清方はこのとき、論敵の圧に押され、自己弁護を試みるあまり課題を正しく定義できていない。清方はここで、版画一般が複製物であり工芸品であり、美術としての肉筆より劣るとしてしまっているのである。清方は、年方について、浮世絵から離れようとして肉筆画に向かい、晩年にはすっかり日本画家になってしまった、とさまざまなところで述べているが、おそらくその年方評は文展でのデビュー当初「挿絵かき」と馬鹿にされた清方自身の身上を投影しすぎている。
清方は、藤懸と対立しながら同じ土俵にのることで、師および明治20〜30年代の浮世絵派系統の絵師たちへの不適切な評価を払拭できなかった。
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2. 創作版画と「浮世絵」という概念
藤懸の明治浮世絵に対する評価は、同様の先行例を見出すことができる。
橋口五葉は大正4年に、省亭、月耕、年方、永洗等について「木版画の特技を示す事よりは、複製的の者を作ると云ふ方面に向て居る」と述べている。
また、より早い時期に、伊上凡骨「木版画の真価」(『早稲田文学』明治40年5月)がある。このテキストの出だしは次の通りである。
近来木版画なるものの趣味が、漸く識者の間に認められるやうになつたのは、誠に喜ばしい事ですが、まだ一般の世間では版画とさへ云へば原画通りに複製する細工物であるやうに思はれて居るのはいかにも慨かはしい次第です。
凡骨は、同テキスト内でやはり明治版画について次のように述べている。
明治になつてからも月耕年方等の諸氏が、少なくとも昔の錦絵画家のやうな苦心があつたならば、せめても版画趣味を今日の有様まで堕落させはしなかつたらうと思ひます。然るに事実は全く反対で、画家の法で既に版などの爲めに書くのはつまらぬと云ふ風になり、昔は錦絵で楽しんで居た世間は今は石版の美人画で楽しむと云ふやうな情ない有様に堕落してしまひました。
凡骨は、山本鼎『漁夫』の彫師としても知られている。ここに述べられているのは、後の大正新版画における浮世絵復興ブームの先駆的観念であると同時に、創作版画の中心的な理念でもある。
明治42年、石井柏亭が百科全書に「版画」の項目を書いたとき、「複製的版画」と「創作的版画」の項目を区別しつつ、「複製的版畵と創作的版畵との間に截然たる區別を設けるのは寧ろ困難である」と慎重な態度を見せている。ただし、この次の一文は「吾人の述べんとする處は單に美術的の版畵に止まるから複製としての外に何等の版畵的価値なきものは棄てることとする」と続く。つまりここで石井が述べる「版画」という概念は、「複製技術」としての特徴が切り捨てられた「美術としての版画」である。この「美術としての版画」という見方の確立が、山本鼎と伊上凡骨の明治37年『漁夫』や明治40年の山本の『みづゑ』連載、『方寸』の創刊にある。
創作版画グループによる「版画」観念の発達は、美術としての版画から複製機能を切り捨てることに焦点がおかれている。この概念的試みは、版画における「複製」と「美術」を遠心分離機にかけて分離することにあった。こういった観念が、大正期にはいり、浮世絵に関心をもつ一連の人(藤懸静也、橋口五葉、渡辺庄三郎ら新版画運動の担い手)に受け入れられ、「美術版画」としての「浮世絵」という観念が成立する。
このとき、新版画グループが「浮世絵」から切り捨てたのは、出版という概念であり、江戸期浮世絵の出版事情が抱えていた猥雑さも切り捨てる。出版が切り捨てられるがために水野年方や尾形月耕、富岡永洗らの絵は「複製」として評価を下げられたのである。雑誌にのる口絵は複製であり美術的な価値はないものとされた。藤懸静也が、「板画趣味」として歌麿や栄之ら天明寛政期画家を称揚するのは、美術としての側面を強調するものであるが、これが天明寛政期の出版の発達や吉原遊廓などから切り離すことが可能になったのは創作版画グループのつくりだした「複製的版画」と「創作的版画」の図式によってである。
浮世絵が吉原における人身売買的な背景を抱えていたという側面は、マリア=ルス号事件以来、明治政府にとって恥として了解されていたはずである。浮世絵が海外で評価されていることを知りながら、明治政府が美術史における浮世絵の位置付けをかなり低めに設定しているように見えるのは、人身売買や売買春と結びついた表現だったからではないかと思われる。藤懸のような東大出身の文化官僚が「板画趣味」を語り浮世絵を「美術」として処理することは、明治政府としてはかなり都合がよかったようにはおもわれる。
橋口五葉が晩年に試みた美人画のシリーズは、あきらかに温泉宿における売買春を示唆するものであるが、政府による出版検閲の事情と相俟ってこの側面は沈黙を強いられていた。五葉はシリーズの完成を見ずに没してしまったが、おそらく正当なしかたで出版するつもりはなかったであろう。五葉のこうした複雑さ、あるいは「文学的な」性格は、藤懸や渡辺の志向した「美術」としての浮世絵が知らないものであった。
3. 水野年方と画塾
月岡芳年の薫陶を受けた水野年方は、名実ともに浮世絵師であったが、彼の残した絵や画業の展開、弟子たちの書き残した年方の考えなどを読むと、「浮世絵」という伝統にたいする複雑な思いが伺える。
年方が活動したのは、明治16年ころから明治40年であるが、初期には芳年とともに新聞挿絵・新聞錦絵とメディアを賑やかし、それから文芸誌の口絵で名を馳せる(明治20〜明治30年代)。明治30年代にはいってからは、口絵も挿絵も描くが、日本画にコミットする。画風が変わるのは、日本画を描きはじめて交友関係も変わったためである。明治10年代から20年代前半はまだ浮世絵の版行はかなり行われていたが、明治27年日清戦争を境に完全な衰退期に入る。
出版業界の構造的変化のなかで、浮世絵、新聞、文芸誌と活躍の中心を変えながら、年方は出版界でのトップランナーでありつづけたが、業界の構造的変化と並行して、趣味の領域における大きな変化があった。かつて浮世絵が中心的なモチーフとした花魁も役者も、明治政府の検閲により表現の現場から撤退することになる。年方の画風の変遷はこの事情をよく物語る。吉原遊廓や芝居町といった浮世絵を育てた江戸文化から離れ、文芸誌を読む層、おそらくは新興ブルジョワジーの婦女子を中心とした読者に届く絵を作りだす。榊原百合子(蕉園)はその読者であり、高山樗牛の『瀧口入道』のために年方が描いた口絵は、彼女を年方画塾に向かわせる契機であったとおもわれる。年方が向き合っていたのは、江戸から続いた町人文化としての「浮世絵」の終焉である。
年方は、弟子たちに絵が品下れるものとならないよう注意を促し、また先達の職人気質を嫌った。明治40年に雑誌『衣裳』に掲載された年方の談話は、彼が浮世絵についてどのような歴史的パースペクティブを持っていたか語っている。
文政の頃から畫界は堕落し始めた文政以降の畫家の態度はと云へば、畫家の眞意が職人の如く自ら信じて自ら地位を卑しめ私が習ひ始めた當時は印半天を着て會へ得意となつて来た者もあつたが、近年は外國畫の輸入すると共に覚醒をして来り良傾向を呈し居るは喜ばしい事です。
年方の大師匠にあたる国芳など典型的に「印半天」を着ていそうなタイプであるが、年方は国芳を尊敬してもいる。国芳は、気風は職人でありながら、画技ときては圧倒的に近代的な芸術家である。師芳年もそうである。年方が試みたのは、近代的な芸術にふさわしい画技を、職人風文化から切り離して新しい装いを凝らすことであった。
年方画塾の面々(清方、輝方、蕉園ら)は、「浮世絵」にまつわる複雑性をそのまま引き継いでいる。なかでも、職人の子であった池田輝方は、自身も江戸の職人の子であった年方がもっとも愛した弟子ではないかとおもう。輝方は、錦絵としては『江戸の錦』、本画としても『猿若町』(芝居町の一つ)など、つねに江戸に懐旧的な絵を描き、大正画壇において清方や蕉園らとともに一時代を築いた。それが冒頭に書いたような藤懸静也による批判を受ける。年方にとっても、輝方や清方や蕉園らにとっても、「浮世絵」とはたんに美術史的に対象化できるようなものではなく、愛憎半ばする生きた環境そのものであった。
藤懸の「板画趣味」としての「浮世絵」はずいぶん非歴史的な物言いであり、年方画塾のメンバーを苛立たせるにじゅうぶんだっただろう。彼らからすれば、藤懸らの「板画趣味」はヨーロッパ人が愛する浮世絵でしかない。
水野年方や尾形月耕ら、明治20年代から30年代を中心に活躍した浮世絵師たちが歴史の彼方に忘却されることになったのは、「浮世絵」という概念そのものが、山本や伊上の確立した「版画」という概念に照らされて、変質して「美術」となってしまったが故である。「美術としての浮世絵版画」という理念に照らして、彼らの仕事は「浮世絵」ではなくなってしまった。この「歴史」はあきらかに倒錯的である。この倒錯を前にして、年方の弟子たちは、江戸的なものとしての「浮世絵」の再構築を試みたが、これは滅びるよりほかないノスタルジーであった。このノスタルジーを他所に、創作版画による影響下に「浮世絵」という観念はまるごと洋画的に再構築された。年方の弟子である清方でさえ、大正8年当時にはこの見方からまったく自由ではなかったことは、「肉筆を美術品とすれば、木版は工芸品である」という言明にあきらかである。
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