平成美術 うたかたと瓦礫
『平成美術 うたかたと瓦礫』展示は見にいかなかったけど、図録を読んでみて、そんなに男性中心主義とか自民族中心主義とかではない。
まあ「デブリ」というチョイスは、椹木の本来の意図としてはchimpom/カオスラウンジ論なんだろうなとはおもう。
村上隆とchimpom/カオスラウンジのあいだの切断にどんな美学的な差があるかということがたぶん椹木的な関心とおもわれ、「デブリ(瓦礫)」としてのchimpomやカオスラの前史を「バブル(うたかた)」と言うわけだ。なので、デブリ以降(カオスラウンジ以降)は把握できているとは言えない。というか記述する概念としての「うたかた/瓦礫」がchimpomとカオスラを記述する装置である以上、その後を記述することができない。 /icons/hr.icon
村上とかレントゲン的なものをわざわざ後退させて平成を振り返ることには、意義がある。マイクロポップのやりなおしであるともいえるけど(マイクロポップは村上の落とし子だがchimpomやカオスラウンジはマイクロポップ的なところもありつつそれだけでは語れない)、それをデブリとして言うのは重要な認識が提示されているようにはおもう。
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松井みどりが打ち出したマイクロポップ路線は村上隆の落とし子だが、そもそも村上隆の活動をポストコロニアリズムやフェミニズム的に解釈した展開だとおもう。そこから椹木が「うたかた/瓦礫」に転換するのは、村上隆の引力から脱出するためにおこなわれているようにおもう。チンポムとカオスラウンジも村上隆の落とし子だが、マイクロポップではない。椹木史観からすれば震災がマイクロポップを吹き飛ばして瓦礫にしてしまったというわけで、チンポムやカオスラウンジはもともと瓦礫だったから生き残ったということになる。
椹木の態度にナショナリズムを読み込むのは間違っているし、「突然目の前が開けて」のメンバーをキャリアがたりないと切って捨てる危うい操作をすることにも問題がある。こういう方向での批判ではなく、マイクロポップは震災でほんとうに解体されたのかを問うことには意義があるのではないか。
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いやマイクロポップはまあいいか。
どっちかっていうと、結局「瓦礫」以降を把握できていないことと、チンポム/カオスラを「瓦礫」と名指すことで歴史化するという操作になっていることに問題がある。反芸術が芸術という制度に依存していたことにたいして、制度としての芸術が解体されたあとにあらわれるのがマイクロポップと瓦礫ということになるだろうが、椹木の操作は(本人が言説としては非歴史的な態度を主張しているにもかかわらず)歴史を構築するための操作になっている。制度としての芸術は終わっていないし、椹木による歴史化もまた制度的なものである。マイクロポップにもおなじ問題がある。
でも「突然、目の前がひらけて」とかは、そもそもうたかたでも瓦礫でもない。むしろより構築的なものなのは間違いない。制度としての美術に回収できるようなものでもない。
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ついでに言うと、荒木夏実が「男性であることが必須の天皇を軸に、鴨長明、磯崎新、そして椹木野衣という日本人男性の思考の枠組みの中で、男性を中心とするアーティストやプロジェクトが紹介された展覧会。」と述べるときに、端的にこの展示には学芸員が参加しており、奥付には野崎昌弘、筒井彩、泉川真紀の名があり、彼らも図録に執筆していることを無視している。大枠を椹木が提示しているのは疑いないが、図録中に彼らの記名記事を読むかぎりでは、椹木の独断的態度によってのみ成立した展示ではないだろうことは伺える。 /icons/hr.icon
山本浩貴による評。
わかるんだけど、椹木の思想への評であって、それが作品やキュレーションとどうかかわるか、椹木の手順の具体的な分析がほしい。
2023/09/25