孤立した主体という観念
ペドフィリア、チャイルド・マレスターと性的指向
この記事では、ペドフィリア(小児性愛)は性的指向であって行為ではない、LGBTQの権利からペドフィリアを排除するのは差別だと考えられている。
この記事のなかで、ペドフィリアとは原理的に同意が得られない性的欲望だとして、アイドルや死者への性的な欲望と並べられている。
現実的には絶対に性的同意を得られることのないだろう対象に欲望を覚えたことのあるひとは、別にペドファイルに限らない。多くの非ペドファイルだって、面識のないアイドルやすでに死去したひとへ欲求をおぼえてきたし、自分へ性的な関心のない人や確実に持たないだろう人へ性的な欲求をおぼえた経験は自分もある。もし「性的同意を得られる現実的な可能性」自体が問題ならば、そういった欲望を経験してきた人たちだって、同じく「危険」だし「異常」だと議論すべきだろう。
記事の書き手が、小児と大人の関係の権力的な差というものを捨象するのは意図的なのだろうか。
いずれにせよ、幼少時の性被害をうけたサバイバーに「ペドフィリアとチャイルドマレスターは違う、前者は性的指向の問題だから差別するな」と言うのは、寛容を求めすぎる話であることは疑いようがない。この記事では当事者というものに欠き、理論的な原則が適用されているだけだ。これを反差別を主張している人が書いているらしいのは理解に苦しむことだ。
いったい、性的指向は自律的に存在しているものだろうか。心というものがどこか中空にあって、他者のない世界で欲望は機能するのだろうか。
わたしは、性的欲望というのは本人の本来的指向というようなものというより、関係のなかで構築されるものだと考える。この考えを採用するなら、性的欲望というのは他者に対して関与する態度の基礎にあるものであって、独立した主体が他者なしに欲望することはない。性的欲望を自律的な実体だと考えることにそもそも問題がある。異性愛的な性的指向をもった人間は異性愛的な関係を構築する。あるいは、この関係のありかたそのものが異性愛的な性的指向なのである。
ペドファイルをLGBTQ+に包摂するのかどうか、という問いは、性的指向を固定的なジェンダーアイデンティティだと把握することから生まれてしまう理論的な欠陥でしかない。