大吉原展について
大吉原展。内容は素晴らしかったが問題点が…吉原遊廓の「光と影」
このレビュー記事で、大正時代の花魁道中の再現についての話はかなり優れた「大吉原展」批判だと思う。
「大吉原展」では、大正3年「東京大正博覧会」にあわせて、吉原で花魁道中が再現されたときの絵葉書が紹介されている。図録の該当箇所を添付する(左側ページの4枚の絵葉書)。
上3枚は稲本楼の小紫を正面・側面・背面から撮影したもの、下は角海老楼の白縫を撮影したもの。展示ではこれらの写真が掲示されている。解説にはこれが大正3年のものでありすでに花魁道中という風習は廃れていたことは記述されているが、おおむね「白縫のよそおいは、幕末の浮世絵に描かれた花魁の姿を彷彿とさせる」とあるように、花魁を知るための資料として扱っている。また、この白縫は、花魁道中を強制されることは人権侵害だと翌年訴えて自由廃業し、これが「デモクラシー女史」だと評されたと紹介している。
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「まめだいふくブログ」乃坂皐月さんの記事では、展覧会に出ていない絵葉書を紹介している。花魁(角海老楼の紫)が高下駄で歩く姿を大量の見物人が取り囲んでいる写真である。記事では次のように紹介している。
花魁道中を見る人は何を思ってみたのでしょうか。綺麗だな、美しいなと思った人もいると思います。
しかし彼女たちは娼妓です。公娼であり廓の中で関係者と客人を相手に日々を暮らしている中、見世物にされたと考えると非常に残酷です。成人式で着物を着たり、卒業式で袴を履いているのとは違います。
借金のために管理売春の下、身体を売っている女性であって、観音様の後光のように広がった簪だらけの頭と重たくて派手な着物で転んでも仕方ない高い下駄を履く苦行を見世物にされたとも言えます。
それを証拠に角海老楼の白縫は風邪で寝込んでいたにも関わらず花魁道中に無理やり参加させられ精神的苦痛を感じ、のちに娼妓廃業を申し出て受理されました。
江戸期の本来の花魁道中は、客から指名のあった花魁が茶屋に歩くまでの道のことで、とくに好奇の眼差しにさらされるわけではない。大正期に再現しようとした花魁道中は、最初から見世物でしかなく、文脈が大きく異なっている。白縫の訴えは、「見世物」であるということにかかっているのだが、大吉原展においては、白縫が高等女学校出身の才媛であること、「デモクラシー女史」と評されたことを紹介し、「新しい女」と括ることで、まるで人権についての新しい観念が発達することで花魁道中が衰退したかのように印象づけている。
しかし、こういう操作こそ、白縫の訴えを無視している、もしくはその訴えの意味を薄めている。展覧会が何を見せていないかといえば、まさに観客の存在にほかならない。白縫の訴えた「見世物」であることとは、観客の眼差しにおいて、実在としての白縫が表象に変換されることだ。大正3年の花魁道中とは、花魁に「花魁のイメージ」と一致することを要求するイベントだった。それによって実在は捨象される。彼女が苦痛を感じたのは、この「博覧会」の構造が人間動物園と同じ構造をもっているからだろう。この花魁道中は、東京大正博覧会に合わせて吉原で行われたものだが、同博覧会の余興として仮装行列がおこなわれており、そこで「花魁道中」のパロディが一等をとっている。 一等 花魁道中、張子ノ花魁カ豆提灯ヲ簪トシ毛脛ノ素足ヲ以テ外八文字ヲ踏メルモノ満場ヲ笑倒セシム(山形縣)
吉原で27年ぶりに花魁道中がおこなわれたのが4月20日で(『台東区百年の歩み』)、この仮装行列は6月13日におこなわれている。 人類館事件があったのは、花魁道中再現から遡ること11年、1903年(明治36年)のことである。 江戸期の遊女を描いた浮世絵は、まさにこのような構造を抱えている装置なのではないだろうか。それは観客の存在に与えられたものでありながら、観客の存在を不問にする。ブログ記事で紹介される絵葉書は、その構造を暴露している。