ヒルマ・アフ・クリント
美術手帖のヒルマ・アフ・クリントについてのクィア的な読み、むしろ無理矢理すぎないかという印象だった。「進化」が有性生殖によって起こるという観念があり、有性生殖=生物学的男女とその本質化(「男性性」と「女性性」が自明に存在している)がある。カタツムリのような雌雄同体に関心をもったのは、たぶん有性生殖以前=カオスの状態の表象としてであるとおもわれる。進化の突端に現在の自分たちがおり、その先にはさらに精神的な進化があるのであるから、カオスに戻るのではなく分化が起こる。二元論こそが進化の根拠として使われているのだから、現代的な観念とはかなりズレがある。
保守的なというか、いわゆる家父長制的な性規範のもちぬしではなかったのはたしかで、ただそこからレズビアン的関係があったからといって、ただちに思想的実践として現代的なクイアネスの先駆性を読もうとするのはたんに過剰だと感じる。
あと、両性具有への神話的な憧憬って現代的にはどうなんですか。そこらへんだいぶ怪しい気がしたんですが
クイア・リーディングだというのはそうだとおもうけど、もっと文脈掘り起こさないと単に説得的ではないと感じる。アフ・クリントのレズビアン性は僧坊での同性愛的関係っぽさがあるなとおもったけど、それはそういう社会関係を当時の規範的性のあり方と対比的にどう理解するかが問われるはずで、そのへんがスキップされて現代の観念から見て先駆的に見えるという解釈を出しているように見える。
自分はたとえば、荒川ナッシュ医が、エルズワース・ケリーの「スペクトラム」という作品を性的多様性の象徴として読み替えていくのは筋が良く見える。ケリーはゲイだったそうだけど、当時レインボーには現代のような象徴性はなく、むしろハードエッジ系のモダニズムの文脈でやっていたのは自明で、そこを現代のレインボーに読み替えていくのは鮮かだとおもった。それはモダニズムの男性中心主義への批評として機能する(エルズワース・ケリーの作品理解からゲイ性が排除されている)から鮮やかなのだけど、その読み/文脈の転換は現代の芸術の規範性からの解放でもある。
ヒルマ・アフ・クリントのカタツムリをどう読むかは、文脈依存の問題なんだけど、アフ・クリントを巡る問題群に「抽象」を巡る図像解釈学の復活という文脈がもうひとつある。クィアに読むのであれば図像解釈学とはたぶん対立的な立場を取ったほうがよさそう。図像解釈学はあくまでアカデミックに確立された領域だけど、クィア・リーディングはむしろ(たぶん)批評的営みで、相性いいとおもえないし、それぞれで別な解釈が導かれるとおもう(というか図像解釈学は客観的にやる必要がある)。そのへんが混ざっているように感じる。
図像解釈学の性規範性みたいなものまで視野に入るとおもしろくなるんだろうけど(パノフスキーをクィアに読む!)、そこまでやってそうには思えないんだよな。むしろ図像解釈学の復活によってMoMA的な「抽象」を批判できるから結託しているというか、それが相互に中途半端なものにしているように感じる。その「MoMA的抽象」批判じたいがすでに古く感じられるから、語りにくさがあると感じる人がいるのではないだろうか。
アフ・クリントの二元論性は自明なような。W=女性、U=男性という図式的理解は本人が書いているもので、そこからWU=両性具有もしくは雌雄同体という図式があるので、だいたいの論者はアフ・クリントの二元論を前提としているのでは。アフ・クリントでは原初の混沌が螺旋として描かれ、その螺旋の展開としてカタツムリ(雌雄同体)というモチーフを持ち出すのだから、カタツムリ=雌雄同体は原初の混沌の象徴として描かれている。そうすると男女という性差は、混沌から秩序への発展として現れているはず。
ユリア・フォスインタビューでは「性別は単純な二元論に基いているのではなく、異なる要素が混ざり合っているという認識」と述べられ、性のアサインが固定的ではないと主張しているとおもうけど、これが現代的な観念だというのはわかる(「混ざり合っているという認識」が現代的かどうかはわからないが)。ただ、ここからインタビュアーはカタツムリの雌雄同体にいっちゃうけど、カタツムリの雌雄同体性ってそもそも身体の性の話ですよね。身体的な性差があるからこそカタツムリの雌雄同体がなにかの象徴になる。この雌雄同体への志向には若干の気持ち悪さを感じるんですよね。ほかにも精子と卵子を描いてたりすることにも気持ち悪さを感じるけど、この気持ち悪さみたいなのがなんなのかは自分はいまいち説明できない。
矛盾しているかどうかはそんなに気にしていないんですが、「性のアサインが固定的ではない」は、ユリア・フォスは社会構築主義的な理解をアフ・クリントにあてはめ、そういう理解は可能だとおもう。ただ、そこから現代の性別二元論の克服の象徴としてカタツムリの雌雄同体性を取り上げると、んーそうなんだっけ?みたいなのと(身体的性差の問題って現代的な議論の枠組みにおいて雌雄同体みたいな話になる?)、ヒルマ・アフ・クリントがカタツムリを通じて何を思考していたかが単純に抑圧されているように感じる。
わかったけど、カタツムリはサイボーグフェミニズムにひきつけて考えればかなり整理できそうだな。男性でも女性でもないものとしてサイボーグのメタファーをもちだすのとおなじ仕掛けで、カタツムリが解釈されているんだ。