『異種混淆の近代と人類学 ラテンアメリカのコンタクト・ゾーンから』
序章
第一章 異種混淆の近代と人類学
1 人類学の窮状
2 人類学の自己成型
3 異種混淆の近代
失われゆく「真正の文化」を保護し救出しなければならないと主張する人々も同様に、自律的であった伝統的分化を近代化が破壊しつつあるというかたちで現状を認識する。そこでは「伝統的なるもの(the traditional)」についての言説が、「近代的なるもの(the modern)」についての言説と相互に構成的な関係にあるということが否定されるのである。しかし、「伝統的」とは、本質によって定義されるものではなく、「近代的」と自己定義する中心との、(排除を含む)関係のしかたである。つまり、「伝統的」とは、近代の内部において近代に対する一定の位置であり、それに対する関係のあり方である。 pp. 29-30
4 フィールドワークの逆説
5 ホームとフィールドのあいだ
6 ポスト・イントラ・モダン
7 ホームワークとしてのフィールドワーク
8 人類学の可能性
9 はじまりのために
第二章 奴隷と黒人の近代 ––帰還と回復の神話をこえて
1 奴隷であるがゆえに
2 黒人奴隷貿易と黒人奴隷制
3 剥奪された地域・否定された歴史
4 「転置」と切断の体験
5 故郷へのすみやかな帰還
6 「アフリカ」の再建
7 アフリカへの帰還
8 「アフリカ性」の神話
9 歴史の回復の神話
10 帰還と回復の神話をこえて
第三章 ブラジル独立後のコロニアル言説
1 ポストコロニアル批判と人類学
2 「一般的インディオ」としてのトゥピ
3 「われわれの他者」としてのインディオ
しばしば指摘されているように、解放のイデオロギーとしてのナショナリズムと抑圧のイデオロギーとしてのナショナリズムは表裏一体のものである。ナショナリズムが「植民地支配に対する抵抗のもっとも重要な場」であることに疑問の余地はなく、それは植民地解放闘争を支える代表的イデオロギーであるが、他方それは「植民地主義が自らを再生産する力のもっとも顕著な証明」ともなり、植民地から独立した国家というかたちをとって「しばしば最悪の植民地体制にひけをとらないほど抑圧的な植民地主義のクローンが数多く生み出されてきたのである」(Dirks, ed. 1992: 15)。 p.85
ラテンアメリカ諸国の独立の担い手は、植民地宗主国の文化的継承者を自認する植民地人たちである。それゆえに、例えば20世紀中庸のアフリカ諸国の独立の場合のように、独立後のナショナリズムの言説のなかで「植民地化以前の文化伝統の回復」というレトリックを用いることが原理的に不可能であった。それにもかかわらず、「インディオ性(Indianness)」を流用し、土着の先住民の正当な後継者として自らを規定する例は枚挙にいとまがない(Urban and Sherzer, eds. 1991)。ブラジルもその例にもれない。そのナショナリズムの言説は、ヨーロッパの植民地主義から独立を達成した主体としてのブラジル民族=国民という「われわれ」を事後的に構築し、その「われわれ」に土着の正当性を付与するために、先住民インディオという表象を流用し、同時にインディオが自らを表象する道を封じる。(略)インディオとは、他の民族と区別して「われわれブラジル人が何であるか」を定義するために、「われわれ」が利用できる専用の資源であり、「われわれ」が都合よいしかたで自由に定義する特権をもつ他者なのである。 p. 86
4 インディアニズモ––ブラジルの建国神話
5 近代化と同化政策
6 流用される「インディオの精神」
7 ブラジル人類学にとってのインディオ
ブラジルの人類学者ラモス(Ramos 1990)は、欧米では人類学が帝国建設(Empire-building)に貢献してきたのに対して、ブラジルの人類学は国民建設(nation-building)をめざしてきたという、同僚の人類学者の言葉を紹介している。この違いは、前者が、自己と他者の隔絶した文化的異質性を前提として、その間に架橋する(支配であれ指導であれ)社会関係を樹立しようとする企てであるのに対して、後者は、すでに社会関係が存在してしまっている他者をも包含する「われわれ」という文化的な同質性を構築しようとする企てだと言い換えることもできるだろう。 pp. 99-100
8 アメリカ人類学との岐路
9 ポストコロニアル食人主義
第四章 ブラジル・モデルニズモのレッスン ––文化の脱植民地化とは何か
1 「文化の植民地化」という問題
2 独立という植民地化
3 モデルニズモ ––場違いなアヴァンギャルド?
4 食人主義と緑黄主義 ––文化の輸出入とナショナリズム
5 コンセルヴァトワールのマクナイーマ ––知識人と民衆文化
6 回顧するモデルニスタ ––文芸の革新と社会の変革
7 軍事政権下の文化産業
8 ネオリベラリズムとポストモダニズム
ネオリベラリズムの伸長と踵を接するように、「ラテンアメリカがポストモダニティの先鞭をつけたのは、概念がヨーロッパや北米のコンテクストで現れるより前である」という奇妙な議論がなされるようになってきた。それまで近代化にとっての障害あるいは跛行的な近代化の現れとみなされてきたラテンアメリカ社会の異種混淆性が、「先取りのポストモダニズム」として喧伝されるという事態である。 p.145
異種混淆性の議論そのものは、けっして近年になって、グローバリゼーションの下で氾濫する商品化されたシンクレティズムや、ポストモダニズムに影響された文化理論とともに現れてきたものではない。「メスティサヘ」や「混血の文化」というメタファーにくり返し訴えてきたラテンアメリカのナショナリズムにとっては、使い古されたと言うことさえできる議論なのである。(略)ショーハットとスタム(Shohat and Stam 1994)が正しく指摘しているように、「異種混淆性は、権力関係を含んだ非対称的なもの」であり、「異種混淆性それ自体を賛美することは、もしそれが歴史的なヘゲモニーの問題と節合されないのであれば、植民地暴力の既成事実を聖化してしまう危険がある」。ブラジル(そしてラテンアメリカ)では、まさにそのようなかたちで、異種混淆性の美学が、あらゆるものを非政治化する作用をはたしてきたのである。 p. 146
9 文化の脱植民地化とは何か
しかし、文化的に植民地化された状態とは、まさにそのような言説の内部でしか思考・表現できないことを言うのではないだろうか。つまり、自らが生きている社会的現実に正しく向き合うことができず、世界の中心と目される先進国というモデルとの同一性と差異という問題だけに関心を集中しつづけ、「自分たちの文化がモデルにどれだけ近づきえているか」と「自分たちの文化がモデルからどれだけ離れた独自のものたりえているか」という両極のあいだを振り子のように往復することしかできないことが、文化的に植民地化された状態なのである。別の言い方をすれば、文化的に植民地化された状態においては、めざすべきモデルの受容を強制され、同時にそのモデルに到達することを妨げられ、モデルとの差異を自分たちの側の遅滞・劣等性として理解するようになっているのである。p.148
10 交渉の場としての消費
第五章 近代への別の入り方 ––ブラジルのインディオの抵抗戦略
1 一九八九年、アルタミラ集会
2 近代的インディオ問題
3 近代の言説と文化的差異
4 表象と文化をめぐる抵抗
5 生き残りのための戦略
6 異種混淆的な抵抗の戦略
第六章 カトゥキナの隣人たち ––アマゾン先住民族の現在
1 藪の中
2 強姦事件
3 FUNAI と OPAN のあいだで
4 ジュタイの OPAN
5 カトゥキナ社会
6 カトゥキナ・プロジェクト
7 孤立と統合のあいだの自立
8 ビアへ
第七章 芸術/文化をめぐる交渉 ––グアテマラのインディヘナ画家たち
1 インディヘナ/画家
本章は、大きくわけて三つの部分から構成されている。第一に、西洋近代で成立した「芸術」をめぐる言説が、どのようにして自らの普遍性をよそおい、非西洋世界の生み出したモノをどのような差異として「流用(appropriation)」してきたのかについて検討し、さらに、ポストモダンとよばれる歴史的状況のなかで、その一方向的なプロセスがどのように形を変えつつも連続しているかについて考察する。第二に、グアテマラのインディヘナの画家によって絵画が生産され、流通し、消費されるプロセスについて、上記の二つの村の画家たちの仕事に即し、私自身のフィールドワークにもとづいて概観する。そこでの焦点は、画家たちがどのような条件の下でどのような絵画を生産し、それがどのような「意味生産の実践(signifying practice)」なのかという点である。第三に、非西洋の「コンタクト・ゾーン(contact zone)」において西洋の技法を用いて制作される絵画が、どのような意味で「交渉」の場となっているのか、そこで何が「交渉」されているのかについて、オーストラリア、バリ、ザイール(現コンゴ民主共和国)などの事例をも視野に入れて論じ、それぞれの事例に特有の論点とともに、共通の問題点が浮彫にされる。 pp.204-205
2 西洋近代による認知と排除
3 グアテマラのインディヘナ画家たち
4 芸術/文化をめぐる交渉
5 真の相互性をめざして