『〈日本美術〉誕生』(佐藤道信)
作品の話があまりに無いのに驚く。
たまに具体的な作品の話をしても、素朴な社会反映論であり、「国家権力が歴史画を必要としたから画家は歴史画を描いた」ということしか言っていない。
たとえば、具体的な権力機構が、どのような操作をおこなえば、画家にある歴史画題を強制できるのか、ということはかなり重要な問題であるはずだが、そういった分析はまったくない。裸体画の問題にしても、いかなる検閲機構が存在し、だれがなんのために検閲したかという分析がない。
あるいは、画家はどのようなことをすれば絵画をイデオロギーとして機能させることができるのか。絵画は歴史学ではないわけだし、解剖学でもない。そこには否応なく表現の次元があり、表現物はコミュニケーションの世界に放り出される。それがどういうものとして投機され、どういう効果をもち、どういう経過を辿るか、そういったことの具体的な論述はない。ただイデオロギーの道具として絵画が機能した、とだけ書かれても、そんなことはない、としか言うことはない。
岡倉覚三の振る舞いも、かなりめんどくさいものなわけなのだが、それについても端折ってしまう。 岡倉は、当初官僚から出発して、まさに国家の精華としての美術を考え、その実現のためにメディアと学校をつくりあげた。國華の創刊の辞は九鬼隆三だが、「夫レ美術は國ノ精華ナリ」であり、その九鬼と岡倉は東京美術学校をつくる。そこで作られた「日本美術史」はまさに制度として作られたものだ。これはまさに権力である。 だが、その後岡倉は東京美術学校を追われ野に下る。それで日本美術院を形成するが、結局はうまくいかない。日本美術院は東京美術学校の上位校として構想していたものを、在野でやろうとして失敗した。その後岡倉はアメリカで東洋美術の学芸員をし、「東洋の理想」でアジアは一つと言い、インドの思想家たちにナショナリスティックな鼓舞をする。大東亜共栄圏とそっくりでありながら、あきらかな欺瞞だった大東亜共栄圏と違って岡倉は本気で東洋の解放を信じたロマン主義者だった。横山大観が『屈原』を描いたとき岡倉の姿を重ねているのはあきらかだが、権力機構から追われた人として描いている。明治20年代には積極的に利用された岡倉は、明治30年代に捨てられ、あとは厄介な存在だった。その愛弟子だった横山は、太平洋戦争時には軍への協力を惜しまない。戦後に彼の軍事協力はまったく問われていない。彼はなぜ富士山など描いたのだろうか。
権力はどうやって機能するのか、もっと問うべきなのだ。
こういうことを書いたとて岡倉を戦前のイデオロギーから救いだしたいなど微塵もおもわない。むしろ岡倉と国家権力の隠微な関係こそ執拗に問われるべきである。だが、著者は複雑さに眼を背け、その問いを単純なものと見做してしまっている。
このような単純化こそが、日本美術の忘却を促している当のもので、このような作品に眼を向けない粗雑な制度論こそが「悪い場所」にほかならない。