相互作用としての対話
相互作用
グルントヴィは、相互作用は異なった状態がそのまま存在し、異なっている事で互いを豊かにしようと働く、バランスを保持していくものであると考えた。
グルントヴィはは社会内部にせよ、様々な社会制度にせよ、互いに自分の方が優勢になって他を支配しようとする傾向があることを痛切に感じていた。
同じことが教室でも見られ、教師は生徒たちに自分の知識の見方を注ぎ込もうとするため、生徒たちより優位な立場に立とうとする。自由を獲得するために、権力構造の解体をしてもそれはまた別の権力でしかない。全ての人が存在する権利を持つという事を相互に認識し、それに基づいて社会の中の全ての要素が平和的に変化することを求めた。
個人と個人が相互に対話し尊重していく中で学び合っていける相互認識があり、その相互作用は社会のあらゆる組織、場面において展開されていく。
グルントヴィは多数の人々に語りかける事も含めて、生きた言葉で語りかけ、相手を承認し、相手からの語りかけを待つことを対話としたのである。ここに、グルントヴィの相互作用としての対話の本質があると考えられる。
学校
グルントヴィは学校においては、教師と生徒の相互作用が最も重要であるとしていた。
教師から教えられる学科についても「それが言語であれ、数学であれ、歴史であれ、もしくは個々の教師が彼自身の楽しみのため、そのために時間をみつけ楽しもうと、主要なことは、相互的であり、生きていて一般的な関心であることでなければならない」とした。
そして、「何よりもまず庶民が学校に尊敬と愛着を持ち、良い観念を得ることが、彼ら自身が学校に固有な仕方で一定の事柄を学ぶよりも、私の目からすると重要」とし、「教師が若者のうちに実在している生を単に目覚まし、養い、啓蒙するのみである。講義から対話へ転換することによって、はじめて達成させる」ことができるとした。
教えるという講義形式の「優位に立つ」傾向からは人間の生の自覚は生まれないとし、対話の重要性を説いた。教師と学生との相互作用の基本となるものは、自由な対等な対話と討議形式であるとした。
したがって学校においては筆記形式というものの価値を認めなかった。