グルントヴィの対話理念の今日的意義
「一次的なな声の文化」
「生きた言葉」とは、現代的な文脈においてどのような説明が可能なのだろうか?
その問いに対する答えの一つとして、「一次的な声の文化」を提唱したのがウォルター・J・オング。
「一次的な声の文化」とは文字文化以前の書くことを知らない人々の文化である。
この一次的な声の文化は二次的な文字の文化に完全に転換していくわけではなく、文字の文化の底流には常に「声の文化・オラリティ」が存在すると述べている。
言語はどのような場面でも話し聞く言語であり、音の世界に属していると述べている。
人間の日常生活は、話し、聞くという声の文化から逃れられないということ。
聴覚的に受け取られる言葉の重要性を、オングは次のように述べている。
活字に毒されている人々は、言葉はまず第一声であり、出来事であり、それゆえに必然的に力によって生み出されるものだということを忘れている。言葉は平面上に「投げ出された」ものではない。そうしたモノは、根本的な意味では死んでいる。
マーシャル・マクルーハンも著書「グーテンベルグの銀河系」において、「文字の使用によって言葉から多次元的な響きが失われるまで、非文字型文化の中に住む人々にとっては、全ての言葉がそれ自体で一つの詩的な世界を形成していた」とし、それは瞬間的な神であり、掲示であったとしている
ここには呪術的な意味も含まれるが、神話や物語など声として語らえる聴覚的な言語情報が、視覚的な言語情報とは質的に異なる意味を持つと述べている。
グルントヴィは人間を有機的な統合物として捉えていた。
言葉も端に発せられるのではなく、人間のあらゆる機能と統合して発せられるものとして捉えていくこと、意味的だけでなく情動的なものも含めた声としての側面が教育現場に置いていかに重要であるかを、コルが導き出したといえる。
口頭という行為には、言語を表出する側、聴受する側の身体的要素が存在している。言葉を発するときに伴う身体としての様々な要素ー目線・表情・身振り・声質・声の抑揚などーこれらすべてが対話の雰囲気を構築し、声の文化を作り上げていく。
さらに、「一次的な声の文化は、文字文化になれた人々のあいだで見られる性格構造と比較すると、より共有的、集団的、外面的」であるとされる。口頭のコミュニケーションは、人々を結び付けて集団にするという側面があることは周知の事である。読み書きという孤独な作業中心の教育環境で育つ子供たちが、デンマーク社会の将来をどのように構築していくのかをコルは危惧し、それゆえ初等教育における徹底した高等教育重視を主張したといえる。