クリスティアン・コル
コルの口頭教育
コルの教育論のなかで特筆すべきは初等教育論についてである。1851年にコルが設立したフォルケホイスコーレは、その後フォルケホイスコーレにおける基本的な教育内容を決定したものと言われている。
グルントヴィは18歳以上の成人教育を主眼に啓蒙活動を提唱したが、コルは教育現場において、初等教育の必要性を感じていた。 グルントヴィの北欧神話教育などが初等教育においては難解であるという現実から、コルは初等教育機関の設立に向けての運動をはじめた。
コルは知識的、体型的学問の基礎となるべき人間教育がまずは初等教育期間に必要であり、その根本は「想像力」にあるとしている。
「初等学校の教育が、もっぱら理性に向かって語りかけて感情にはただ部分的にしか語りかけず、その一方でファンタジー、つまり想像力をほとんど無視してきたのは犯罪的な過ちである。」として、コルは当時の初等教育における教理問答式の宗教教育を批判した。
体型的な教理問答式の詰め込み教育はデンマーク人には合っておらず、数学や幾何学、算数の授業であるならば数理問答式は成立するかもしれないが、人間としての成長を促す初等教育においては物語が最も必要であるとした。
初等中等教育のカリキュラムについても、まずは学問の根幹としての祖国の歴史が教えられるべきであり、それは「最近の時代から素描されただけの無味乾燥な出来事の羅列を暗記することから始まる」のではなく、「何より子供達には民族の時代の物語を話してやらなければならない」としたのである。
さらに、学校でされなければならない真実で本物の教育とは、教えられる者たちに話しかけることができるかどうかということであるとした。教師の語りかける言葉によって、子供たちは心の中で何かを感じていく。教育は子供の内面に向けられ、そこから外面を形成すべきである。
教育とは「教師の側からすれば心の問題であり、伝えるべき彼の生の使命なのである」と考えたのである。
それは「心を聴く耳」を通して、精神を覚醒させる事であり、ただ生きた言葉だけが成し得ることだと主張した。
精神が覚醒して、初めて文字による人為的な啓発方法の効果があると考えた。
さらに、初等教育において読むことは重要であるなら教師は必要ない。口頭の授業が読むことの基礎であり、祖国の歴史も口頭で語られなければならないとしている。口頭での授業が教師によって生き生きとされれば、子供たちは自らの楽しみのために読むことを欲していくと考え、口頭での言葉が、耳を通じてという自然な方法で理解できないことであれば、人為的な文字によってはいっそう理解できないと主張している。
口頭での物語は、生きた言葉による語り手と聞き手の直接のコミュニケーションであり、聞き手の想像力をより深く刺激するものである。
『子供の学校論』の訳者である清水満は、コルが子供たちに伝説や物語を語った意味について次のように述べている
人は物語を語り、また聴くことによって自己をその共同体の物語の中に織り込み。アイデンティティを確認して共同性を高めていく。いわゆる「文字の文化」に対する「声の文化」であり、論理的な思考過程ではなく、感性的身体的な共同性、豊かな深層意識を背景として持つ文化である。
彼がデンマークの歴史物語や北欧神話、そして聖書まで物語として子供たちに提供しようとするのは、このオーラルなコミュニケーションのなかで築かれる一体感、共同の意識を確率するためである。
また。コルは当時教育にすでに存在していた「試験」、「宿題」、「暗記」という教育内容を批判した。子供たちが、授業は試験のためにあり、試験は授業のためにある、という間違った信念を持つようになってしまう事を憂慮し、
子供たちを教育する際に重要な基本原則は、形式よりも内容、外面よりも内面を彼らが得るようにすべきだという事である。
つまり、書くことを学ぶ前に書く内容を持たねばならず、読むことを学ぶ前に知りたいという渇望を感じなければならないのである。それは、人が現実の表面だけ、目的のための手段だけ、そして事物の「本質ではなく」現象だけを大事にすることがないようにするために必要な事である。
コルの教師観
コルは、教育の本質を教師も親も見失うべきではないとした。
したがって、初等教育段階における読み書きは最小レベルでかかわり、口頭授業による子供たちの想像力を刺激していくことを重視した。そうすれば、13歳から14歳には能力が発達し、感覚が開花して、自らが読み書きの技術を習得していくだろうと考えた。
コルは、読み・書き・計算を決して軽視していたわけではなく、スキル的な教育内容以前に、子供自らの想像力で創造していく世界を確率していくことが必要と考えた。
そのためには、教師の高い技量が必要となる。コルは教師についても下記のように記述している。
教える中身について、その素晴らしさと必要性に対する生きた関心と愛が教員の個性と心情に浸透しているかどうかである。
その結果、生きた言葉が持つ理解を超えた力によって、子供たちの人格がいわば開かれ、教師が伝えようとしている思想、感情、考え方を受け入れる事ができるだろう。
コルは教えようとする内容についての関心や愛が、教師自身の心情に浸透しているかどうかが教師に求められるべき力量だとしている。教える内容の知的理解は当然のことであるが、それのみでは子供たちの心に言葉は届かないと述べている。
さらに、「ポエジーをもった教員」が必要とされるとも述べている。それは、子供たちの想像力に話しかけるため、生き生きとした形で解釈し、神話や伝説を生き生きと語る教師のことだと記述されている。つまり、教師自身の想像力や語りかける言葉の力が重要であるとしているわけである。教師の声、表現力、全てが言葉の力となり、子供たちの想像力を刺激していくことの重要性を説いている。
また、コルは教師について、熱心で熟達した教師程危険な側面があると述べている。
親も教師も、子供が大きく成長するのを見たいのは確かな事だが、子供に対する教師の愛ゆえに、子供への教師の影響力を教師自身が過大評価してしまう事の危険性について触れている。教師がより高度な教育プロセスを意のままにできればできるほど、子供は自分でそれをしたという思い込みをたやすく受け入れてしまう危険があり、「教師が望む生を子供たちにもたらそうと教師が熱心になればなるほど、教師が彼の要求を子供たちに押し込めば押し込むほど、教師が彼を理解してくれるものへの愛情を多く示せば示すほど。そしてその者の反応に喜ぶほど、彼は自分もその相手もその分だけだましていることになる。」と警告を鳴らしている。
そして、子供たちが何をどの程度受け入れるかについては、子供達自身に任せるべきだとしている。そのためにも、自分自身が何に興味関心をもち、何を必要とするのかを幼いころより選択できる力を育てていく必要があると考えた。
『教育が真に目指すべきところは、デンマークの民衆が、物事を洞察するたしかさ、何かを意志する生と意欲と愛、そして、それを遂行する能力と自立性を各自の能力に応じて最高レベルで獲得する事である。
さらに、コルは、教師の周りに子供たちが集まっているときが最も喜ばしい光景であるべきであり、学校で教師を囲んでいる子供達は、「ほかのどの場所にいるときよりも、一番幸福で自由でなければならない」
デンマークで重視されてきた「共同体」とは、全体を重視するものではなく。個人の感性としての「詩的」世界を持つことがまず優先され、それらが共有されていくことで共同体が形成されていくと考えられる。コルの「話す学校」は、個々の子供達の完成を教師の感性が刺激し、深め広げていく、いわば身体全体から発せられる声が作る「場」として存在したのである。