カフカ
近代の完成
時代は一九世紀へと遡る。神の威光降りすさぶ封建主義の地平、そのヴェールに身を包み、権力を振るう王とその臣下。
そして、周縁で救いと信仰に献身する人民。
人間の温もりのうちにあった経済は青ざめ、替わりに交換という人称性を欠いた無機質な論理が露出し、骨格を失った社会は、もはや中心を保てず、人々は結び目を解かれた糸のように解体された。
かくして個人主義的で、合理主義、そして機械的な世俗経済が到来する。ゆえに神の死と資本主義とは、人類史のなかで近代とそれ以前を完全に分つ、我々が初めて直面した歴史的大転換を意味するのだ。
こうして時代を画したこの二つの出来事には、しばしば根本的な誤謬が見られる。 それは、表層的な差異に目を奪われ、両者に潜む深層の同一性が抜け落ちたことに他ならない。
近代、神の死と資本主義もまたその共犯関係にある。そして、その結託を完成させた存在こそ、万物の商品化である。 近代における経済的価値とは世俗的価値の典型に他ならない。
商品化とは対象を実用性に代表される経済的価値へと還元し、資本主義は万物をこの原理に適応させた。
本来対象がもつ宗教的、芸術的、文学的価値などの多様で豊かな様相は商品化を通じ、経済的価値へと還元され、市場へと出荷される。
その結果、価格というラベルをつけられ、陳列された対象をみて我々はその存在を確認するのだ。
マーク・フィッシャー曰くかつて神殿には、儀式があり、祈りがあり、そして暮らしがあった。香が立ちのぼり、鐘が風とともに鳴り、子らの笑いが回廊を満たした。人々はそこで祈り、食し、語らい、歌い、死んでゆく。文化的事物とは元来、このようにして人々と社会的で政治的で宗教的な相互関係を営んでいた。しかし、資本主義は祭壇画だけを切り出し、美術館へと移送する。 ホワイトキューブに閉じこめられた仏像や、ルーブルの勝ちとったミロのヴィーナス、大英博物館のツタンカーメンとはいわば頸から落ちた頭蓋、肩から抜けた魂、顔面から飛び出た眼球であり、かつて人々とともに呼吸していた文化の屍に残されたものはもはや生の温度ではなく、保存のための冷気 — 文明の死臭を放つ標本である。 まるで作品と人々を隔てる硝子のようにオブジェクトとの連続性を絶たれ、客観化された観客的態度は、かつて、人々がオブジェクトと結んだ、関与し、参加する主体的態度とは非常に対照的であり、この地点において、オブジェクトはその域を超え、我々にまで死を到来させる。
勿論、一連のすべてが、神の死と資本主義そのものの所産にあるとするは性急である。
しかしその構造的同時代性を偶然と呼ぶには、あまりにも美しく、あまりにも啓示的だ。
まるで世界が神の終焉を一篇の寓話として演出したかのように、それは資本主義によって世俗化されゆく世界、その象徴に相応しい。
神の死―それは資本主義の進行とともにオブジェクトのレヴェルで伝播し、急速に蔓延した現象であり、いまや我々の呼吸にまで入り込んでいるのだ。
それはまるで万物が神の被造物として聖性を宿し、その基で生活が織りなされていたかつてのように、あらゆる次元を無化された商品に日々囲まれ、我々はその消費者となることで、考え、働き、食べ、眠り、神の死は身体化される。
かくして世俗化は完成された。
資本主義という公理のもと商品化は、絶えず、そして不断にあらゆるオブジェクトを侵食することで神の死という事件を日常に再演、再生産するのだ。
これこそが、人類の置かれた現在地に他ならない。
商品化とは神の死の効力をそのうちに含む。
すなわち、万物の商品化こそがあらゆる文化的、社会的、政治的、宗教的オブジェクトを単なる経済的なオブジェクトへと還元することで、人類からあらゆる次元をひき剥がし、その姿を観客的あるいは客観主義的消費者へと変え、すべてのオブジェクトを比較可能にし、価値の相対化を、世界の世俗化を、すなわち近代を完成させたのであった。
プルートス神話
しかし、神の死と資本主義の共犯関係をその慧眼をもって暴いたマルクスは、同時にこうも告げる。その原理はかの一神教のようである、と。人々が資本主義で生き延びるには、あまねく事物を商品へと変貌させ、個人に与えられた労働や関係、時には想い、時間すらも価値の尺度へと切り分けて、資本主義へと献上しなければならない。
すなわち、世界はひとつの巨大な供犠場と化し、そのすべては経済への奉仕へと還元された。それはまるで聖書に記されたいにしえの戒律であった。「汝は私の他に神をもってはならない」、「汝はいかなる像をも造ってはならない」。この言葉は、もはや救済を齎す箴言ではない。むしろ、彼岸からの神託を奪い、世俗への命令に転倒させた資本の律法そのものである。 近代とは神の死に始まり、世俗化を組織する。がしかし、一神教的である。ヴァルター・ベンヤミンはこのことを『宗教としての資本主義』という草稿にて、資本主義がその神性の隠蔽を基礎づけとすると論じた。いわば近代資本主義とは、自らの神性を偽り、あらゆる神へ死を宣告する経済原理。世俗の仮面を被った唯一神の誕生であるのだ。自らを神に非ずと装うことで、神の死を掲げながらその座に留まり、他の一才を虚構とし、自らのみを崇めよと命じる。世界はその欺瞞のうちに統一されている。その名を呼ぶ者はいない。だが、誰もがその前にひざまずいている。その姿を見た者はいない。だが、誰もがその祭儀にとりこまれている。 曰く「神の超越は地に堕ちてしまった。しかし神は死んだのではなく、人間の運命のなかに取り込まれた」。すなわち、崇高なるものはもはや天上にあらず、市場と利潤の秩序の背後に降臨し、資本主義は新たなる一神教を組織する。神の死によって成立した資本主義という神、近代が示すこのアンチノミーはかくして調停された。神の名を捨て、信仰を生活のヴェールに隠蔽することで、神の死から逃れ、もはや己が武器とし、唯一神の権威を獲得した存在。ベンヤミンはその名を、思索の断片にプルートスと記す。 彼らは、富がその呪縛から解き放たれ、腐敗した権力を打ち倒し、世界を照らす未来を願ったのだ。かくして采配の権能は、かつての主のもとへ、本来の座に復した。覚醒したプルートス。彼らはその復活を賛美し、歓びを舞い、きたる理想郷へ想いを馳せる。その姿はまるで権威の下に支配された富を解放し、その自由な発展が織りなす未来へと希望を抱く経済自由主義者、ひいては進歩主義者のようであった。 ウォーラーステイン曰く「進歩の観念こそは、封建制から資本主義への移行過程全体を正当化するものである。それは、万物の商品化に反対する〔封建〕遺制を打倒する行為を正当化し、弊害を遥かに凌駕する利益があるという理由で、資本主義批判を一掃する役割をも果たした」。しかし、彼らは知る由もなかった。富の眼が開くというただそれだけのことが、世界の原理を反転させるということを。富が解放されるというただそれだけのことが、神々の秩序を崩壊させるということを。そして終章、覚醒したプルートスはその見えざる手によって、采配の権能を振う。富は神によって導かれ、供給され、再編された。しかし、一つの論理へ統合され、収束する富は、その偶然性があまねく多様性を開花させるように、その偏在性によって人間を一元化させる。よって、多くの神々は窮乏した。なぜならば人々の心は多なる神々から離れ、祈りは絶え、供物は祭壇より消え失せたのだ。すなわち、神の多様性とは、富の偶然性によって──すなわちプルートスの盲目によって──支えられ、多神教としてあり続けたのだ。そしてその果て、富はかの最高神までをも屈服させる。物語の終幕、かつてのあまねく神々を自らの配下に秩序づけたプルートスは、最高神の名を我がものとした。だが、それはかつての意味にない。かつての秩序は位階はあれど、あらゆる神々は己が信仰と儀式、そして権能を有し、多神教の体系は多元的に営まれていた。しかし、プルートスの審眼は富を偏在化することで祈りのすべてをその手中に治める。したがって、彼らはプルートスの軍門に降る他、選択肢を持たず、さもなくばその神としての地位を失うのである。 しかし、我々は、自由を求める革命が失敗に終わったと今一度認識しなければならない。いまや誕生したのは、王権神授に替わる資権神授。すなわち、神−王−民の図式は、プルートス−資本家−労働者へと置き換わり、我々人類の多くは、王に替わる主人としての資本家へ仕えるのだ。これこそがポストモダンの記した構造であり、解放を求め、新たなる奴隷へと陥った人類への悲哀である。しかし、この隷属はかつての外的な支配の域を超え、万人の内奥までをも侵食する。ここにこそ、ベンヤミンが喝破した資本主義のもっとも深淵な神学的構造──罪責と負債の同語性(Schuld)──が姿を現す。すなわちプルートスは、人間に労働を強いるだけでなく、資本主義に属するあらゆる存在──国家、家族、個人──そのものを終わりなき負債として刻印し、存在の持ちうる万物の商品化へと、未来永劫駆りたてるのだ。いわばホモ・エコノミクス(Homo economicus)とは、ホモ・シュルト(Homo Schuld)に他ならず、彼らの唯一の救いは、資本主義の供犠そのものに、より一層いそしむことである。こうして人間の豊かな諸相やオルタナティヴは消失し、すべてが経済のもとへと捧げられ、やがて人々は、資本主義を唯一の現実とみなす。 アリストファネスは、この物語を悲劇とも、また祝福とも記さなかった。この神話はプルートスが覚醒し、多神教が崩れゆくその趨勢の只中、確かな結末が示されぬまま途絶える。このことは我々に希望を与える。なぜならば、この地点こそ人類の現在地にあり、この物語の続きを生きる者こそ、現代を生きる我々自身であるからだ。未完の物語は、構造の欠陥ではなく、開かれた未来を示している。結びの欠落そのものが、未来を担う主体の出現を予告している。物語はそこで終わったのではない。語り手の座が空席のまま残されたのだ。近代はその空席を埋め損ね、現代もなおその場所を空白のまま抱えている。いまやその席に座る資格は、他の誰でもない我々に委ねられているのだ。したがって、物語の結末は我々に託された。我々こそが神話の目撃者なのだ。ゆえに問わなければならない。神の死をそのうちに含む商品化によって、日々万物へ侵攻を続ける一神教的資本主義。経済、すなわちプルートスの暴政。覚醒したプルートスの審眼によって万物は交換の下にひれ伏し、多様で豊かな人間の諸相は崩れゆく。我々はこの物語の、未来を紡ぐ主体として、今ここに立ちあがるのか。それとも、ただ与えられた秩序で消費者としての生存を全うし、一元化されゆく斜陽をその観客的態度で、傍観者としてただ眺めるか。その選択は、我々の手に委ねられている。
したがって、我々は宣言する──Blind Plutus。いまこそ我々は、長きにわたり秩序を強いてきたプルートスの専制に対し、その力を結集し、反旗を翻さなければならない。一神教的資本主義、その産声は歴史の終わりのファンファーレを思わせ、神の死と経済の専制を万物に再演する商品化は、その予感を確信へと変える。二一世紀初頭、人類は資本に膝をつき、敗北を受け入れた。オルタナティヴの失敗と終焉のなかで、我々はこの四半世紀、絶望にただ耽るばかりであった。実践が前傾化することで、手段ばかりが我々を魅了し、その手段を喪失した結果、理論へと引きこもる。しかし、沈黙にその先はない。一神教的資本主義はいまもなお社会の諸相へ進軍し、外部にあるすべてをその内部へと再配置し、人々を世界の主体から観客へと変え、革命の残滓を摘みとり、僅かに残る批判的態度を言説へと閉じこめる。いまこそ我々はあのテーゼへと立ち帰らなければならないのだ。「哲学者たちは世界を様々に解釈してきただけだが、重要なのは世界を変革することである」。ジル・ドゥルーズはこの絶望を予感していた。曰く、如何なるレジームにも「解放と隷属はせめぎあっている」。かつて世界を統治してきた如何なる統治も、その権力を揺るぎないものかに築きあげた如何なる支配も、解放のヒロイズムの前には無力であったのだ。したがって人類に絶望している時間などなく、「闘争のための新しい武器を探しもとめなければならない」。ゆえに、我々は武器を求め、立ち上がる。絶望は捨てよ。この世界の片隅に、解放の手立ては残されている。世界を知り、構造を暴くことで、我々が歩むべき道は示される。そして次なる武器が人類の手中へと下る時、永らく途絶えていたプルートスの物語は、再び動き出すのだ。 English Ver
Japanese Ver
Blind Plutus
Manifesto
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目次
I.
世俗経済論
近代の完成
プルートス神話
信仰経済論
近代の超克
新たなるオルタナティヴ
Proceed to signature
II.
ポスト資本主義へ
III.
概要
我々はこの宣言をもって、資本主義の一神教的性格を暴き、近代の克服への運動を組織する。一神教的資本主義と、その中心を占める商品化によって構成される世俗経済。我々が唱えるのは、そのオルタナティヴの提案であり、世界の解釈ではなく、変革の宣言である。
世俗経済論
近代の完成
時代は一九世紀へと遡る。神の威光降りすさぶ封建主義の地平、そのヴェールに身を包み、権力を振るう王とその臣下。そして、周縁で救いと信仰に献身する人民。こうした幾世紀をも画する近代、その到来を決定づけたのは神の死と資本主義にある。如何なる共同体も父なる政治が形を与え、母なる経済が命を与える。秩序と循環、その結合こそ、我々人類の住まう「社会」である。かつて社会とは、神話と宗教が人々を縫い合わせることでその骨格を築き、贈与と再分配が血潮として人々を巡ることでその乏しい生を潤していた。だがわずか一世紀にして、幾千年と人類社会を支えてきた政治と経済の双柱は、その支配的地位から没落する。人間の温もりのうちにあった経済は青ざめ、替わりに交換という人称性を欠いた無機質な論理が露出し、骨格を失った社会は、もはや中心を保てず、人々は結び目を解かれた糸のように解体された。かくして個人主義的で、合理主義、そして機械的な世俗経済が到来する。ゆえに神の死と資本主義とは、人類史のなかで近代とそれ以前を完全に分つ、我々が初めて直面した歴史的大転換を意味するのだ。
こうして時代を画したこの二つの出来事には、しばしば根本的な誤謬が見られる。それは、表層的な差異に目を奪われ、両者に潜む深層の同一性が抜け落ちたことに他ならない。マリノフスキーやモースをはじめとする多くの人類学者が示したように、あらゆる社会において政治と経済は独立した次元になく、形と命は始原から絡み合い、互いの次元を養いながらひとつの構造を紡いできた。近代、神の死と資本主義もまたその共犯関係にある。そして、その結託を完成させた存在こそ、万物の商品化である。近代における経済的価値とは世俗的価値の典型に他ならない。商品化とは対象を実用性に代表される経済的価値へと還元し、資本主義は万物をこの原理に適応させた。本来対象がもつ宗教的、芸術的、文学的価値などの多様で豊かな様相は商品化を通じ、経済的価値へと還元され、市場へと出荷される。その結果、価格というラベルをつけられ、陳列された対象をみて我々はその存在を確認するのだ。マルクス曰く「貨幣は人間のあらゆる神々を堕落させ ― それらを商品へと変える」。すなわち、商品化という一連の過程を通じて、人間を取り囲むあらゆる対象は脱神聖化される。
マーク・フィッシャー曰くかつて神殿には、儀式があり、祈りがあり、そして暮らしがあった。香が立ちのぼり、鐘が風とともに鳴り、子らの笑いが回廊を満たした。人々はそこで祈り、食し、語らい、歌い、死んでゆく。文化的事物とは元来、このようにして人々と社会的で政治的で宗教的な相互関係を営んでいた。しかし、資本主義は祭壇画だけを切り出し、美術館へと移送する。ホワイトキューブに閉じこめられた仏像や、ルーブルの勝ちとったミロのヴィーナス、大英博物館のツタンカーメンとはいわば頸から落ちた頭蓋、肩から抜けた魂、顔面から飛び出た眼球であり、かつて人々とともに呼吸していた文化の屍に残されたものはもはや生の温度ではなく、保存のための冷気 — 文明の死臭を放つ標本である。こうしてコンテクストを破壊され、文化的次元のひき剥がされたオブジェクトは、それを観賞する存在にとって単なる知的或いは美的対象以上のなんの関係も持たない。まるで作品と人々を隔てる硝子のようにオブジェクトとの連続性を絶たれ、客観化された観客的態度は、かつて、人々がオブジェクトと結んだ、関与し、参加する主体的態度とは非常に対照的であり、この地点において、オブジェクトはその域を超え、我々にまで死を到来させる。勿論、一連のすべてが、神の死と資本主義そのものの所産にあるとするは性急である。しかしその構造的同時代性を偶然と呼ぶには、あまりにも美しく、あまりにも啓示的だ。まるで世界が神の終焉を一篇の寓話として演出したかのように、それは資本主義によって世俗化されゆく世界、その象徴に相応しい。
神の死―それは資本主義の進行とともにオブジェクトのレヴェルで伝播し、急速に蔓延した現象であり、いまや我々の呼吸にまで入り込んでいるのだ。それはまるで万物が神の被造物として聖性を宿し、その基で生活が織りなされていたかつてのように、あらゆる次元を無化された商品に日々囲まれ、我々はその消費者となることで、考え、働き、食べ、眠り、神の死は身体化される。かくして世俗化は完成された。資本主義という公理のもと商品化は、絶えず、そして不断にあらゆるオブジェクトを侵食することで神の死という事件を日常に再演、再生産するのだ。これこそが、人類の置かれた現在地に他ならない。商品化とは神の死の効力をそのうちに含む。すなわち、万物の商品化こそがあらゆる文化的、社会的、政治的、宗教的オブジェクトを単なる経済的なオブジェクトへと還元することで、人類からあらゆる次元をひき剥がし、その姿を観客的あるいは客観主義的消費者へと変え、すべてのオブジェクトを比較可能にし、価値の相対化を、世界の世俗化を、すなわち近代を完成させたのであった。
しかし、神の死と資本主義の共犯関係をその慧眼をもって暴いたマルクスは、同時にこうも告げる。その原理はかの一神教のようである、と。人々が資本主義で生き延びるには、あまねく事物を商品へと変貌させ、個人に与えられた労働や関係、時には想い、時間すらも価値の尺度へと切り分けて、資本主義へと献上しなければならない。 この言葉は、もはや救済を齎す箴言ではない。むしろ、彼岸からの神託を奪い、世俗への命令に転倒させた資本の律法そのものである。近代とは神の死に始まり、世俗化を組織する。がしかし、一神教的である。ヴァルター・ベンヤミンはこのことを『宗教としての資本主義』という草稿にて、資本主義がその神性の隠蔽を基礎づけとすると論じた。いわば近代資本主義とは、自らの神性を偽り、あらゆる神へ死を宣告する経済原理。世俗の仮面を被った唯一神の誕生であるのだ。自らを神に非ずと装うことで、神の死を掲げながらその座に留まり、他の一才を虚構とし、自らのみを崇めよと命じる。世界はその欺瞞のうちに統一されている。その名を呼ぶ者はいない。だが、誰もがその前にひざまずいている。その姿を見た者はいない。だが、誰もがその祭儀にとりこまれている。曰く「神の超越は地に堕ちてしまった。しかし神は死んだのではなく、人間の運命のなかに取り込まれた」。すなわち、崇高なるものはもはや天上にあらず、市場と利潤の秩序の背後に降臨し、資本主義は新たなる一神教を組織する。神の死によって成立した資本主義という神、近代が示すこのアンチノミーはかくして調停された。神の名を捨て、信仰を生活のヴェールに隠蔽することで、神の死から逃れ、もはや己が武器とし、唯一神の権威を獲得した存在。ベンヤミンはその名を、思索の断片にプルートスと記す。 アリストファネスは紀元前、資本主義の創世記ともとれる、予言の書を記した。その物語こそ、富を司る者にして豊穣の女神デメテルの子──プルートスの神話である。物語の幕開けは、ひとつの喪失に始まる。最高神の裁きによって視を奪われた富神プルートス。永い闇の底で富の行く先も、その重みも、何ひとつ見通せぬまま、世界は長いあいだ、彼の沈黙の上に築かれていた。しかし、ある時、愚かしくも正義に満ちた無垢なるクレミュロスとその一行が、最高神の意に反旗を翻し、その封印へと手を伸ばす。彼らは、富がその呪縛から解き放たれ、腐敗した権力を打ち倒し、世界を照らす未来を願ったのだ。かくして采配の権能は、かつての主のもとへ、本来の座に復した。覚醒したプルートス。彼らはその復活を賛美し、歓びを舞い、きたる理想郷へ想いを馳せる。その姿はまるで権威の下に支配された富を解放し、その自由な発展が織りなす未来へと希望を抱く経済自由主義者、ひいては進歩主義者のようであった。ウォーラーステイン曰く「進歩の観念こそは、封建制から資本主義への移行過程全体を正当化するものである。それは、万物の商品化に反対する〔封建〕遺制を打倒する行為を正当化し、弊害を遥かに凌駕する利益があるという理由で、資本主義批判を一掃する役割をも果たした」。しかし、彼らは知る由もなかった。富の眼が開くというただそれだけのことが、世界の原理を反転させるということを。富が解放されるというただそれだけのことが、神々の秩序を崩壊させるということを。そして終章、覚醒したプルートスはその見えざる手によって、采配の権能を振う。富は神によって導かれ、供給され、再編された。しかし、一つの論理へ統合され、収束する富は、その偶然性があまねく多様性を開花させるように、その偏在性によって人間を一元化させる。よって、多くの神々は窮乏した。なぜならば人々の心は多なる神々から離れ、祈りは絶え、供物は祭壇より消え失せたのだ。すなわち、神の多様性とは、富の偶然性によって──すなわちプルートスの盲目によって──支えられ、多神教としてあり続けたのだ。そしてその果て、富はかの最高神までをも屈服させる。物語の終幕、かつてのあまねく神々を自らの配下に秩序づけたプルートスは、最高神の名を我がものとした。だが、それはかつての意味にない。かつての秩序は位階はあれど、あらゆる神々は己が信仰と儀式、そして権能を有し、多神教の体系は多元的に営まれていた。しかし、プルートスの審眼は富を偏在化することで祈りのすべてをその手中に治める。したがって、彼らはプルートスの軍門に降る他、選択肢を持たず、さもなくばその神としての地位を失うのである。かくして、「貨幣は人間のあらゆる神々を堕落させ ― それらを商品へと変える」のだ。いわばプルートスの開眼とは富の解放、すなわち近代の創世を意味し、その世界を夢想するクレミュロスとその一行は、ミルに代表されるアダム・スミスとその一行を象徴し、物語の果て到来するプルートスの秩序とは、一神教的資本主義の成立に対応する ── 我々が立つ現在地は、紀元前388年にすでに予言されていたのだ。
しかし、我々は、自由を求める革命が失敗に終わったと今一度認識しなければならない。いまや誕生したのは、王権神授に替わる資権神授。すなわち、神−王−民の図式は、プルートス−資本家−労働者へと置き換わり、我々人類の多くは、王に替わる主人としての資本家へ仕えるのだ。これこそがポストモダンの記した構造であり、解放を求め、新たなる奴隷へと陥った人類への悲哀である。しかし、この隷属はかつての外的な支配の域を超え、万人の内奥までをも侵食する。ここにこそ、ベンヤミンが喝破した資本主義のもっとも深淵な神学的構造──罪責と負債の同語性(Schuld)──が姿を現す。すなわちプルートスは、人間に労働を強いるだけでなく、資本主義に属するあらゆる存在──国家、家族、個人──そのものを終わりなき負債として刻印し、存在の持ちうる万物の商品化へと、未来永劫駆りたてるのだ。いわばホモ・エコノミクス(Homo economicus)とは、ホモ・シュルト(Homo Schuld)に他ならず、彼らの唯一の救いは、資本主義の供犠そのものに、より一層いそしむことである。こうして人間の豊かな諸相やオルタナティヴは消失し、すべてが経済のもとへと捧げられ、やがて人々は、資本主義を唯一の現実とみなす。
アリストファネスは、この物語を悲劇とも、また祝福とも記さなかった。この神話はプルートスが覚醒し、多神教が崩れゆくその趨勢の只中、確かな結末が示されぬまま途絶える。このことは我々に希望を与える。なぜならば、この地点こそ人類の現在地にあり、この物語の続きを生きる者こそ、現代を生きる我々自身であるからだ。未完の物語は、構造の欠陥ではなく、開かれた未来を示している。結びの欠落そのものが、未来を担う主体の出現を予告している。物語はそこで終わったのではない。語り手の座が空席のまま残されたのだ。近代はその空席を埋め損ね、現代もなおその場所を空白のまま抱えている。いまやその席に座る資格は、他の誰でもない我々に委ねられているのだ。したがって、物語の結末は我々に託された。我々こそが神話の目撃者なのだ。ゆえに問わなければならない。神の死をそのうちに含む商品化によって、日々万物へ侵攻を続ける一神教的資本主義。経済、すなわちプルートスの暴政。覚醒したプルートスの審眼によって万物は交換の下にひれ伏し、多様で豊かな人間の諸相は崩れゆく。我々はこの物語の、未来を紡ぐ主体として、今ここに立ちあがるのか。それとも、ただ与えられた秩序で消費者としての生存を全うし、一元化されゆく斜陽をその観客的態度で、傍観者としてただ眺めるか。その選択は、我々の手に委ねられている。
したがって、我々は宣言する──Blind Plutus。いまこそ我々は、長きにわたり秩序を強いてきたプルートスの専制に対し、その力を結集し、反旗を翻さなければならない。一神教的資本主義、その産声は歴史の終わりのファンファーレを思わせ、神の死と経済の専制を万物に再演する商品化は、その予感を確信へと変える。二一世紀初頭、人類は資本に膝をつき、敗北を受け入れた。オルタナティヴの失敗と終焉のなかで、我々はこの四半世紀、絶望にただ耽るばかりであった。実践が前傾化することで、手段ばかりが我々を魅了し、その手段を喪失した結果、理論へと引きこもる。しかし、沈黙にその先はない。一神教的資本主義はいまもなお社会の諸相へ進軍し、外部にあるすべてをその内部へと再配置し、人々を世界の主体から観客へと変え、革命の残滓を摘みとり、僅かに残る批判的態度を言説へと閉じこめる。いまこそ我々はあのテーゼへと立ち帰らなければならないのだ。「哲学者たちは世界を様々に解釈してきただけだが、重要なのは世界を変革することである」。ジル・ドゥルーズはこの絶望を予感していた。曰く、如何なるレジームにも「解放と隷属はせめぎあっている」。かつて世界を統治してきた如何なる統治も、その権力を揺るぎないものかに築きあげた如何なる支配も、解放のヒロイズムの前には無力であったのだ。したがって人類に絶望している時間などなく、「闘争のための新しい武器を探しもとめなければならない」。ゆえに、我々は武器を求め、立ち上がる。絶望は捨てよ。この世界の片隅に、解放の手立ては残されている。世界を知り、構造を暴くことで、我々が歩むべき道は示される。そして次なる武器が人類の手中へと下る時、永らく途絶えていたプルートスの物語は、再び動き出すのだ。