マルキ・ド・サド
De Sade
美人モデル 惨殺の古城 BLOODY PIT OF HORROR
サド原案
> グラビア撮影のために、美人モデル、プロデューサー、撮影スタッフ達が訪れた古城。赤い覆面を被った男が次々と彼等を監禁し、様々な拷問器具を使って責め立てる。万力での頭蓋骨締め付け。手足引き伸ばし。灼熱責め。乳房刃刺し。果たして彼等は、拷問部屋から逃れることができるのだろうか。
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> タランティーノ製作の「ホステル」で話題となったジャンル"拷問ホラー"がレトロムービーコレクションに登場。サディズムの語源となったマルキ・ド・サドに習い、覆面男が全世界を恐怖に陥れる。イタリアで撮影された残酷描写も話題の本作は、究極のエロチック・バイオレンスムービーとして、日本初のDVD化である。内容の残虐性により、2009年よりamazon書店(日本)では、取り扱いが中止された。曰く付きのDVDでもある。(文:松村仁史)
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> ☆字幕監修:石田 一(作家/SFホラー映画史研究家)
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Marquis de Sade: Justine ジュスティーヌ
映画、スペイン語だったから楽しめなかった。
Minski The Cannibal 食人国旅行記
アリーヌとヴァルクールの二巻のみを独立してしたもの。サドが獄中でフランス革命一年前に書いたから、サドや周辺でコミュニズム的思想への渇望があったのかな。
とくに注目すべきはサンヴィルの旅行記で、あたかもスウィフトの筆致を思わせるような、二つの架空の国の遍歴譚は、これだけを独立に取り出しても、十分その文学的価値を主張しうると言える。アフリカにおける食人国ビュテュアは、いわばサドの単純化された逆ユートピアであり、南太平洋における美徳の国タモエは、いわば彼のユートピアの理想を凝集したものでもあ
ろう。二つの国の描写は、いずれも異様な生気にみちみちているが、とくに後者は、暗いペシミスティックなサドの作品中にあって、ほとんど頬を見ない不思議な明るさを放っている。タモエの国家形態は、所有権の完全な否定という意味において、完全に共産主義的である。法律の廃絶、国家の死滅を原理として志向した、言葉の真の意味における共産主義を、ここまで徹底的に追求したイデオローグが、十八世紀において、はたしてサド以外に一人でもあったであろうか。彼が一種の矯激なユートビア思想象として、すべての十八世紀イデオローグの最左翼に立っていることは、一切の牢獄と死刑を廃したこのタモエの国の明省な見取図によって、あまりにも明らかであるように思われる。
私のことを忘れないでいてください」とこの誠実な男は、自分の胸にわたし
言いました、「世界の果てに一人の友だちがいることを、ときどきは思い出してください。そんなとき、あなたはこう思うがよろしい、《わたしはやきしい、感じやすい国民の住んでいる国を見た。その国には法律はないが美徳が栄え、宗教はないが敬虔な気風がみなぎっている。わたしの愛する一人の男に統治されている。わたしはいつでもその国に行けば、憩いの場を見つけ出すことができる》とね⋯⋯」
第三学級は、十二歳から十五歳までの少年たちによって形成されています。この学級に移って
始めて、社会における人間の義務や、自分を生んでくれた人たちとの関係について教えられます。
神について聞かせられ、創造主に対する愛と感謝とを教えられます。また近い将来に、女性とい
っしょに暮らす生活が待っていることを教えられ、この共に暮らず親しき半身に、どういうこと
をしてやらねばならないかを感得させられます。夫婦生活においては、夫が妻を幸福にしてやろ
うと努力するのでなければ、夫もまた幸福を期待するわけにはいかないということを説き明かさ
れます。この世に妻ほど誠実な友はなく、妻ほどやさしい伴侶はなく⋯⋯要するに、妻ほど親し
い存在はないのだから、夫たる者は、できるだけ親切に、できるだけやさしく彼女を扱ってやる
必要があるということ、また、性来膽病で怖がりの女性というものは、自分を不幸にする権柄す
くの夫を本能的に嫌うだけに、自分を愛し保護してくれる夫には、心から愛情を捧げるものだと
いうことなどを教えられます。
ょうか。ギリシアのドラコンの定めた法律などは、手に剣をもって宣言したような感じです。
「罪を罰するのではなく、罪を未然に防ぐことを旨とした、あの賢明にして偉大な古代ペルシア
の法律の原理を、わたしが実現したと思ってください。人間を死に追いやるためには、ただ患者
もしくは死刑執行人を必要とするのみですが、人間を殺きないで済ますためには、多くの思慮と
心遣いとを必要とします。
「財産の平等とともに、盗みが消えてなくなります。盗みとは、自分が所有していないものを所
有したいと思う欲望、他人がもっているものを見て、自分も欲しいと思う欲望にほかなりません。
しかるに、おのおのが同じものを所有していれば、この罪の欲望はもはや存在しえなくなります。
産の平等は国民の団結を助長し、穏和な政府の基礎を固め、国民の一人一人がひ
っな風潮をつくりだしますから、国家に対する犯罪、革命などは起りよう
るのでしょう? とはいえ、やっぱり色事や密通は存在します。この悪は避けるわけにはいきま
せん。でも、それはごく稀で、ほとんど表立たず、密通をしている者はひとしく良心に吹ましさ
を感じているので、どんな種類の混乱も社会に及ぼされることはないのです。軽率な行為もなけ
れば、不平不満もなく、罪悪もほとんどありません。これこそ、離婚を認める夫婦関係がもたら
したところの成果ではありますまいか? あなた方ヨーロッパ人が用いる手段のなかには、不幸
な女を大衆のふしだらな欲望の前に捧げる、例の遊女屋という破廉恥な手段もありますが、こう
いったようなものすべてをもって、いったいあなた方は、わたしがわたしの方法によってなし遂
げた成果の、半分の成果をも挙げることができたでしょうか?
「所有に関することの一切が、これであなたの前にさらけ出されたわけです。さらに細かいこと
を述べれば、人民はすべてのものを個人の所有とせず、国家から借り受けているので、彼が死ね
ば全財産が国家に返還されることになるのです。でも生きているあいだは、完全に落着いた心境
で、自分の財産の恩恵に浴したいと思うのが人情ですから、彼は自分の所有地を耕さないで放っ
ておくような馬鹿な真似はいたしません。所有地の手入れをよくすれば、それだけ安楽な暮らし
「この最初の仕事が実現すれば、悪徳の数もぐっと減るだろう、とわたしは思いました。ところ
減れば、法律がたくさんあることは無駄になります。法律を必要とする
罪悪の量を減らし、みんなが罪悪だと思っているものが、実は自然のものにす
を認めれば、法律はたちまち無用のものになります。ところで、どんな気紛れ
な卑賤な行為でも、それが社会に対して何らかの侵害をもたらすということは
ません。賢明な立法者によって正しく評価されるならば、それらはすべて、危険なものと見なさ
れるわけにはいかなくなるのです。ましてや、罪悪だなどと見なすことは不可能になります。わ
れわれは、もっと法律を廃止すべきでありましょう。法律などというものは、暴君が自分の権成
を証明するために、人民ともを彼らの気紛れに服従させるために作ったものにすぎないからです。
ひとたび法律を廃止するならば、われわれを縛っていた多くの束縛はなくなって、その質、こ
の束縛の重圧に苦しんでいた人間は、ほっと息がつけるようになるはずです。罪と法律とをつね
に結びつけ、どんな罪でも法律を侵害することがほとんどないようにすることこそ、偉大な技術
というべきです。寛大な法律が、ごく少数の罪だけを罰するようにすればよいのです。このこと
文庫版あとがき
六〇年代から七〇年代、七〇年代から八〇年代への移り変わりの中で、サドの本を出すことになった。かつての六〇年代の人々にとって、サド文学の読みかたに、いま一度、考えなおす必要がある。サド文学は十八世紀のユートピアとして注目され、特異な位置をしめていたが、時代はめぐりめぐって、今日、若い読者がサド文学に対してどう読むか、興味が尽きない。ユートピアの観念がいかに変わったか、読者もまた考えることが必要であろう。特に、『食人国旅行記』のなかにあらわれたユートピアの観念が、どのように変化してきたかについても、興味を持たれることであろう。
なお、サド文学およびサド侯爵との付き合いかたを、これから深く知りたいと思う方には、『サド侯爵の生涯』(筑摩書房)も、ついでにおすすめしたい。現在でも入手できる貴重な一冊である。
昭和六十二年三月
澁澤龍彦
補足情報として、フランス革命とは
▲革命の意義
この革命は、思想、法律、政治、社会全領域に及ぶもので、自然権思想を武器とし、絶対王制の法構造を打ち破り、私的所有を基礎とするブルジョア社会を建設した。その過程で諸階級が並行的に革命に参加したので、市民革命の典型ともいわれるが、帰着するところは国内商工業の自由、土地耕作の自由の承認であった。革命は出発点においては絶対主義国家間の戦争を否定したが、途中からオーストリア、プロイセンなどの干渉戦争が始まり、ついでイギリスが参戦、その圧力を受けて急展開を示し、政情の不安定も続いたため、最終的に軍隊を背景にしたナポレオンのクーデターで収拾されることとなった。これはフランス革命が起きた歴史的環境を示しており、イギリスよりは後進国、大陸の他の諸国よりは先進の資本主義国であったことの反映である。